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佐々木滉佑さん (90nm4ycv)2024/1/31 21:49 (No.1059408)削除
「自覚なき奴隷」 (今野晴貴『ブラック企業 日本を食い潰す妖怪』文春新書、2012)

 労働相談をするために訪れる相談者には明らかに企業側に問題があるように見えても「自分が悪いのではないか」と不安がる場合が多いという。本書は現代では普遍化し定着した概念である「ブラック企業」における問題について、実際に被害にあった労働者の事例を交えて記されたものである。
 ブラック企業にはいくつかの特徴がある。私が最も恐怖した事例の一つは「システマチックな選別」だ。あるIT企業の事例だが、入社初日の挨拶でまず人格否定の言葉を送られたという。その後の新人研修では「利益を出せない人間=悪」という価値観を叩き込まれ、徹夜も珍しくないほどの膨大な課題を押し付けられる。なお研修はチームを組んで行われるが連帯責任の制度があり、例えば一人でも課題を提出できなければチーム全員が椅子なしで仕事を強制させられるなどの制裁が与えられる。ある若手従業員によれば「研修中の平均睡眠時間は3時間未満」であったという。このように信任研修では肉体と精神を追い詰めることで企業の価値観を刻みつけていく。やがて研修を終えた新入社員たちは各部署に配属されるが、中には配属が決まらない社員が残る。彼らは「カウンセリング」と称される数々のハラスメントを受けさせられ、やがて退職していく。この場合「自己都合退職」とみなされ失業給付金をすぐに受け取ることができなかったり、退職金が減額されるデメリットがある。
 上記のブラック企業の実態はあくまで一例に過ぎず、使える人間を選別し他は自主的にやめさせるタイプである。逆に辞めさせないタイプの企業もあり、様々な手段で労働者の精神を蝕んでいく。私が本書で気に入っている言葉として『若者が「戦略的思考」を身につける』を挙げる。私は今まさに就活に身を投じている当事者だが、今回ブラック企業について知ることができたのは今後大きな武器になると感じた。企業に利益をもたらす奴隷に甘んじるのではなく、抵抗できるだけの手札を準備していくことが大切なのだと学んだ。(828字)
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藤澤実吏さん (90nlcbf3)2024/1/31 21:27 (No.1059386)削除
安田裕一郎『心と脳―認知科学入門』(岩波新書、1331)
 本書では、理解し難い人間の心の仕組みについて、わかりやすく説明されていた。認知科学を用いて人間の「心の仕組み」を紐解いていくことは、自己理解や他者理解のみならずそれよりも遥かに大きい社会的思想も理解する手助けをし、結果的に身につけた知識をもとにどんな場面でも冷静な判断をすることができると感じた。
本の内容についてだが、本書で何度も出てくる「心の仕組み」という単語、これは例えば体の仕組み、脳の仕組みのように構造化されたものに用いられるのと同じように、理解不能なものではないことを示している。だが男女異なる脳の作りや、個体差から生まれる意識されない心の働き全てを理解することは難しいため、それらのギャップを埋めるため、両者に共通の概念や方法論(物事の真実を知るための手段など)を基礎にした心と脳の研究を続けることが重要であることが分かった。人間は一人で生きていくことは難しい。それは他者との関係性に生まれる感情が一人の人間を作っていき、それが本書で説明されている社会の中で生きていく上で必要不可欠になってくる長期的かつ不可逆的な「発達」に繋がるからである。また、その逆(短期間に起こる心の働き)のものを「学習」という。
私が本書の中でも特に興味を惹いた内容は、安心感、達成感、個人的感情、媚、嫉妬、傲慢などの感情が「社会的感情」に分類されるということである。まず社会的感情とは、自己から他者に向けられる感情のことを指し、先ほど挙げた例の中の嫉妬や媚びなんかはよく当てはまる。私が興味を惹かれた理由として、これまで創作をしている際に「安心感」について考えることが多々あり、これを愛情と紐づけてみていたためである。本書を読んでから、愛情も安心感もどちらも他者に向けたものでありそこに関連性を感じていた自分に対し、自信を持つことができた。人間に備わっている「こころの仕組み」に触れてみることで、新しい視点を得ることができるだけでなく、ぼんやりとした考えをより明確にし、自分の創作に生かすことのできる良いきっかけになった。(855文字)
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菊地恵さん (90nj9emg)2024/1/31 20:29 (No.1059304)削除
コミュニケーションと演劇――平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、2012年)

 これまでは、人々が共通の価値観を築き上げ、一体感を生むコミュニケーション能力が重視されてきた。しかし、このような「わかりあう文化」「察し合う文化」といった日本社会特有のコミュニケーションの枠組みが今日崩れつつある。そうした社会的変化のなかで喧伝される「コミュニケーション能力」とは何か。日本のコミュニケーション教育に疑問を抱く著者が、「わかりあえないこと」を前提とし、最終目標としてのコミュニケーションについて論じたのが本書である。
 現代社会では多様性が求められており、これまでの通念とは逆行する必要がある。具体的には「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」(p.154)が求められているのだ。幸いなことに、人間は社会的役割を柔軟に演じ分けることができる。著者が指摘するように、現代のダブルバインドに対処するためには、様々な仮面をかぶり、演劇のように役割を演じなければならない。
 本書で印象的だったのは著者が行ったコミュニケーション教育だ。著者の平田オリザは日本の劇作家・演出家であり、大阪大学で演劇を通じてのコミュニケーション教育を行っている(p.101)。2章では演劇的手法を用いた国語の授業の様子について書かれていた。簡単な脚本を子供たちに渡し、子供たちに自分の言葉で自由に話すよう促す。演劇の中では、嘘をついてみたり、喋らなかったり、劇中に「いない」ことすらも表現の一環としてうまく受け入れられていた。通常の国語の授業とは異なり、正確さにこだわる必要は無いのだ。
 現代社会では、時代の変化にもかかわらず、コミュニケーションだけがなぜかダブルバインドな状態に陥っている。本書では、お互いを理解し合うことを前提としないコミュニケーションからスタートし、うまく対処する能力を身につけるためのヒントが詰まっていた。演劇の世界に精通した著者だからこそ、提言されるコミュニケーション論である。
(803字)
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會田陸人さん (90nin7lr)2024/1/31 20:11 (No.1059289)削除
内田樹『街場のメディア論』(光文社新書、2010)

「メディアの不調はそのまま我々の知性の不調である」これは本書のまえがきに書かれた言葉だが、私の心にとても深く刺さった。現代社会では、メディアの報道の在り方や必要性について議論が多く交わされている。発達したSNSとも比較され、今まで大きな影響力を持っていたテレビや新聞等ですら、最近では必要性が問われており、現代はメディアとの付き合い方が変化し始める転換期と言えるだろう。
 本書は、今のメディアは激変期であり、その中で、メディアの価値が下がってきている、という前程の元、本論が展開されていく。この本が発行されたのは2010年であり、現代の状況と少し異なる部分もあるが、そういった違いや、本論で書かれていることを今の状況に当てはめて読むことで、より現代のメディアへの理解を深められる素晴らしい書籍である。
 私はこれまで、メディアの衰退について、例えばテレビ離れは他の娯楽が増えたから、新聞離れはインターネットの普及で、情報を手軽に得る手段が増えたからだと考えていた。これらは世間での一般論でもあり、多くの人が私と同じことを考えると思う。しかし、この書籍はそれだけでは終わらず、一歩進んで話を論じる。2章冒頭には、「メディアが衰えている理由として、マスメディアに関わる人達、ジャーナリストの知的な劣化が、インターネットの普及で浮き彫りになり、これが原因で、マスメディアの構造が瓦解しようとしている」と書かれている。
 このように、メディアの在り方について一言で片づけず、一般論から踏み込んだところでメディアについて論じる点。1章の「キャリア教育と職への適正」や、3章の「メディアが庶民の代表の立場を取る違和感」など、一般論とは違う視点、切り口からメディアを論じている点。この2点が、この書籍の面白さであり、ユニークな点だと考える。メディアの見方が変わり、この情報社会の中で、メディアとどう向き合えば良いか、考えさせられる書籍であった。
(805字)
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稲田凜さん (90nekiee)2024/1/31 18:17 (No.1059164)削除
平田オリザ『分かり合えないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、2012)

著者は、「コミュニケーション能力」とは何かについて考察し、特に日本の社会においてその重要性が高まっていると指摘している。かつての日本では、「わかりあう」や「察し合う」ことが重要視され、優しい環境で育ったため、コミュニケーション能力が必然的に身についていたとされていた。しかし、現代社会では異なる文化やバックグラウンドを持つ人々とのコミュニケーションが求められており、これに対応するためのコミュニケーション能力が必要とされている。 
著者は、社会が求めるコミュニケーション能力を持つ人材の育成が、現行の教育プログラムでは追いついていないと指摘している。そして、本書では著者がコミュニケーション教育に携わる中で感じた違和感や疑問を経験に基づいて綴っている。コミュニケーション能力が単なる言葉の交換以上のものであり、異なる文脈でのコミュニケーションが必要な現代社会において、これに対する教育の在り方について問い直しているように感じた。
第1章の「コミュニケーション能力とは何か」では「コミュニケーション問題の顕在化」と「コミュニケーション能力の多様化」という二つの視点から、コミュニケーションの難しさと社会が求めるコミュニケーション能力についてのギャップなどの問題を著者の実際に行っているコミュニケーション教育の現場での経験や考えから議論されている。社会が変化する中で、教育プログラムも柔軟に変わるべきだが、それが不足していると指摘されていた。企業が求めるコミュニケーション能力と学校での教育とのギャップが、学生や就活生にとってダブルバインドの状態を生み出しているのだ。企業が異文化理解能力を要求している一方で、実際には従来型のコミュニケーションスキルが重要視されているという矛盾が存在している。そんな、現代社会が求める能力を養うために教育課程が終了しつつある私はどう抗うことが出来るのだろうかという問いが生まれた。私は教育者として本書にある通りわからない相手、分かり合えない相手と向き合うことで生まれるコミュニケーションを大切にして行きたい。
866文字
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岡崎竣矢さん (90ne8gho)2024/1/31 18:08 (No.1059154)削除
豊かな社会の裏側で – 武田徹 『私たちはこうして「原発大国」を選んだ 増補版「核」論』 (中公新書ラクレ 2011)

 「原発事故は天災ではなく人災、起こるべくして起こったと思います。」この言葉から本書は始まります。現代社会は、2024年1月1日に起きた能登半島沖地震により、その対応の真只中ですが、原発事故と考えると、2011年3月11日に起きた東日本大震災を想起します。
 戦後、日本は核エネルギーを科学の力で解放し、制御する、原子力発電という技術を手に入れました。伴って、原発について安全性の観点から立場の異なる、スイシン派とハンタイ派は議論を続けていました。しかし、それとは裏腹に多くの人は無関心で、原子力というものを意識せずに暮らしていました。それこそ、2011年3月11日に起きた東日本大震災の前、2010年ごろまで電力の約3割を原子力に頼っていて、原発に依存しているのにも関わらず、意識せずに暮らしていました。加えて、都市の住民に至っては、原子力発電所が遠く離れた地方に不自然な配置で建てられていることに対しても、深く考えることはありませんでした。考えていたとしても、当事者意識はありませんでした。
 本書は、1954年〜2002年にかけての原発問題・核技術の受容の問題を軸に論を展開しています。特に、1999年に起きたJOC臨海事故についての内容はその核心に触れていました。核技術も進み、また、原発という技術を手に入れた戦後の日本は豊かになりました。本書の言葉を借りるなら、日本は「原子力的日光」により豊かになりました。しかし、同時に「原子力的日光」に殺される人もいました。その一例がJOC臨海事故でもあります。そして、ハンタイ派の人にとってこの事故の結果は望むものでもありました。「原子力的日光」に殺される人がいれば、ハンタイ派は優位な立場に立つことができるからです。この心理こそ、原発問題・核技術の受容の問題における核と言えます。
 本書では、このように原発問題・核技術の受容におけるスイシン派とハンタイ派の対立などから原発問題・核技術の受容の問題における様々なことを知ることができます。まず、私たちにできることはこの問題をよく知り、意識することです。(843文字)
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浅賀 映海さん (90nari0w)2024/1/31 16:31 (No.1059067)削除
作られた意識 若桑みどり『お姫様とジェンダー -アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』(ちくま新書、2003 )


 この本は著者である若桑みどりさんが2001年から2002年にかけて川村学園女子大学の人間文化学部生活環境学科で教えたジェンダー学の講義をもとにしたものである。講義の内容は、ジェンダーという言葉のみ知っていて実際どういうものであるのかを知らない人に向け、誰もが知るプリンセス・ストーリーからジェンダーを読み解きつつ、学生と生徒が双方向に意見を出し合いジェンダーを理解してもらうというものであった。プリンセス・ストーリーでは女性は自ら行動を起こさず待っている存在として描かれ、男性は困難を乗り越え女性を助け出す構図によって描かれている。男も女も成長する過程で「〜らしさ」という思想によって形作られてきた。このプリンセス・ストーリーにあるような生き方を誰もがこの幸せであると思い込み、女性は王子様に愛されるために西洋人的な美貌を欲しがり、男性は悪戦苦闘し、妻子を養うことができる収入を得ることができる一人前の男になろうとする。ジェンダーの話題になると女性の問題だけが取り沙汰されるが、男性もまた、こうあるべきという形に囚われているのだと感じた。
 本書の大きな話題からは少し外れるが、私はプリンセス・ストーリーに登場する女性が「金髪」の「白人」であり、それが「美の典型」として女性を束縛しているという部分にはっとさせられた。確かに自分の美の基準はこの「美の典型」によって形作られていると気づいたのだ。本書の最後で記されているが、筆者が行った講義はマス・メディアによって知らぬ間にそうであると思い込まされ、人々の意識が無意識的に作られていることに気づき、マス・メディアに対する批判力をつけるレッスンの一部でもあるとのことだ。確かに、自分たちがなんとなく日々触れているメディアには我々の価値観を無意識的に作り出す力がある。ジェンダーの問題に関わらず、こう言ったメディアのメッセージを鵜呑みにせず、その中の政治性を見通し、批判力を持つことは多くの情報に囲まれて暮らす我々にとってとても重要なことなのかもしれない
(本文841文字)
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石澤理彩さん (90nahbzu)2024/1/31 16:23 (No.1059061)削除
手段を有効にするために  吉田新一郎 『会議の技法 チームワークが開く発想の新次元』(中公新書、2000年)

会議やグループワークをしたときに一部の人だけが意見したり、長い時間をかけているのにもかかわらず中身が薄い議論だったという経験はないだろうか。物事を決定する際には必ずと言っていいほど会議が開かれ、私たちは会議社会に生きていると言える。しかし、学校や職場でも効果的な会議の運営方法を学ぶことはなく、その場その場で従来のやり方を継承している事態に著者は疑問を持った。そこで、効果的な会議の技法を知らないがために無駄になる時間やコストを抑えるためにもチームワークを引き出す会議の技法が必要であると考え、この本を通して効果的な技法に加えて内容に充実感を持った会議にできるようなノウハウを伝授している。また、現状の会議の問題点を洗い出し、成功させるための解決法を述べているため、一読するだけでも実践的な技法を身につけられるだろう。
本書の構成は会議を準備するところから始まり、各ポジションの役割や動き方のコツなどを具体例や図を用いて紹介している。座席の配置から意見に対する指摘の仕方まで細かい箇所に関しても解説しているため、自分が経験した会議と照らし合わせながら学べる内容である。特に印象深かったのが、「会議の目的と関係の維持」についてだ。会議は物事の決定が目的になるが、その会議を通して人間関係を壊さないことも重要である。意見がぶつかり合うことや、全く意見が出ないことで空気が悪くなる可能性もあるだろう。そんなときには目的だけを重視せず、関係の維持として個々人のグループへの貢献を認めたり、責任を分担したりと参加者が平等に役割を担えるよう気にすることが必要であると述べていた。この技法をファシリテーターだけでなく参加者全員が知っていれば真の目的を達成するための会議に集中できるのではないかと感じた。
 全体を振り返って、「会議は物事を決定する1つの手段である」という言葉が印象に残る。あくまでも手段の一つであるため、そこに多大な時間をかけるのは効率的ではない。その手段を有効なものにするために会議の技法を学ぶことが必要である。(855字)
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山口遥愛さん (90n8wfa1)2024/1/31 15:39 (No.1059012)削除
学びにつながる   猪谷千香『つながる図書館_コミュニティの核をめざす試み』(ちくま新書、2014年)
今回読んだ猪谷千香さんの「つながる図書館」は、地域に根ざし変わりゆく公共図書館に焦点を当て、レポートした本である。
自分は小さい頃にしか公共図書館に行ったことがない。特に何の変哲もない図書館という認識が今、変わってきているのである。24時間貸し出しを行う図書館、地元のサッカーチームを応援する図書館、ぬいぐるみが泊まれる図書館など『ただ本の貸し出しをするのではなく人々の抱える問題の解決を手助けし、地域を支える情報拠点としての図書館』としてシフトしているのである。
東京都千代田区のまちとしょテラソでは、「図書館では静かに読書をするべき」「イベントは他の施設で行うべき」「公共施設はこうあるべき」という公共図書館に対する固定観念を地域の人々とのコミュニケーションによって解決し、「地域が主役の図書館」を確立することができた。町民との対話により誰かの居場所になった図書館は1ヶ所2ヶ所ではない。佐賀県の伊万里市民図書館では古本市や図書館の誕生日を祝う会、「☆まつり」という合唱や演奏、バザーを行う賑やかな祭りまで年間を開催している。こういったイベントは市民が開催しているのだが、それだけではなくまつりに来た参加者が腰掛けた目線の先に本棚があるように設計されるなど図書館としての機能も備わっている。地域と図書館の強いつながりは、現地だけで見られるものではない。伊万里市では「家読」という小さい子供と親が一緒に本を読み感想を書き合うという」イベントが開催され、他の県にまで活動が広がっている。小さい頃から地域に根ざした活動に触れることで、生涯学習として活きると考え、大学で学んでいることのつながりを感じた。
一方で図書館のない地域であったり図書館までの距離が長い地域もあったりする。本書では図書館でもイベントに町や国からの助成金があまりもらえなかった例がいくつか載っている。図書館が少ないという問題解決のために、図書館という場の役割の幅広さを再認識してもらえるようなイベントを作るべく、これからも大学で場づくりについて学んでいきたいと感じた。(865文字)
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高橋まなさん (90mq6o3h)2024/1/31 13:23 (No.1058918)削除
「消えて良い地域なんかないけれども」ーー山下祐介『地方消滅の罠 「増田レポート」と人口減少社会の正体』(ちくま新書、2014)

「2040年までに全国の市町村の半数が消滅する」「すべての町は救えない」そんな衝撃的な言葉、どう感じるだろうか。自分の住んでいる地域は大丈夫だろうか?と心配になったのではないだろうか。
これは2014年に発表された日本創生会議の「増田レポート」という報告書から始まった。本書ではこのレポートの内容というよりもこのレポートの受け止め方に重きを置いて論じられている。序章、本論(6章立て)、終論と構成されている。序論では「増田レポート」の内容について終論ではこれからの地域再生について述べられている。今回のレビューでは本論部の一部を取り扱う。
このレポートにこそ、地方を消滅へと導く罠が潜んでいる。人工減少はなぜ起きているのか、子育ての観点では地域で支える環境が整っているのは農村部に対して、若者世代は雇用と収入面から都市部に集中している。この複雑で多様な問題を解決するのは難しい。
地域が消滅する前に地域から離れる「棄民」への目線では、自治体財政問題を背景に政府の地域財政の「地域を存続させられなくなって、地域がなくなってもしかたない」といったマイナス・メッセージをして受け取られてしまい諦めと依存の負のスパイラルに陥った経緯が述べられている。
「選択と集中」という論理の先には「地方切り捨て」「農家切り捨て」「弱者切り捨て」といった罠が隠れていると著者は述べている。全ての地域を救えないのなら弱っている部分や少数派は切り捨ててもいいのか、いいはずがない。著者は「ふるさと回帰」といった策について述べている。インフラ整備や情報システムの構築によって若者世代のみならず団塊世代も地域に呼び込もうとしている。
 この問題の答えが出るのはかなり先の未来の話である。著者が述べたような策をとっている自治体も数多く存在し、策は特に取らず。消えてゆく将来を受け入れている自治体も存在する。地域についてだけでなく、子育てや経済、政治についても考えさせられた。(809文字)
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