授業の課題・ふりかえり等をシェアするための掲示板です。指示に従って書き込みください。

掲示板

BBS
アイコン設定
投稿者さん使い方

掲示板の主旨に反する投稿は掲載されません。掲載の是非は管理者が判断いたします。予めご了承願います。
後藤優和さん (90lztfg3)2024/1/30 18:43 (No.1058149)削除
アメリカと日本の図書館の役割の違い――菅谷明子『未来を作る図書館—ニューヨークからの報告—』(岩波新書、2003年)

 この本では、アメリカのニューヨークの図書館の事例を紹介している。本書で紹介されているニューヨークの図書館の特徴として、以下の3つがあると感じた。
①ビジネスのスタートさせるための場所
②芸術の支援
③市民の情報収集の場所
 私が本書を読み、これら3つの特徴から得られるメリットは3つあると考える。まず、利用のしやすさが挙げられる。これは特に①が該当するが、図書館が多機能であることによって、多くの人が利用しやすくなる。これにより、学ぶ意欲があるが、場所がいないといった状況に陥りにくくなる。次に、市民同士の交流が活発になることだ。前述のとおり、図書館が多機能であることによって、多くの市民が利用しやすくなる。これに伴い、市民同士が交流する機会が増え、地域社会が活性化しやすい。
 これら3つの特徴を、日本の図書館と見比べると、大きく違うことが分かる。日本の図書館は、本を読むことや借りるための施設であり、そのほかのサービスを扱っている図書館は、あまり多くないように感じる。つまり、アメリカと日本の図書館の特徴をまとめると、アメリカは、読書ができる多機能施設、日本は、本を読む・借りることに特化した施設であるといえる。よって、アメリカの図書館と同様のメリットは、日本の図書館では得られない。
 では、日本の図書館もアメリカの図書館と同じく多機能になるべきなのか。私は、その必要はないと考える。理由として、アメリカと日本では、図書館の利用者の目的が異なることが挙げられる。アメリカは、前述のビジネスや交流を目的に図書館を利用する市民がいる。一方で、日本は、純粋に本を読む・借りることを目的としている利用者がほとんどである。ゆえに、アメリカの図書館システムを日本の図書館に取り入れた場合、逆に利用しにくい施設となってしまう可能性がある。しかし、アメリカのようなシステムが、日本に必要ないということではない。日本の場合は、アメリカの図書館のような機能は、図書館ではなく、公民館などが担うことで、市民同士の交流などは図れると思う。大切なのは、利用者のニーズを理解することである。(875字)
返信
後藤優和さん (90lztfg3)2024/1/30 18:37 (No.1058142)削除
メディアとの関わり方について――堤未果『社会の真実の見つけ方』(岩波ジュニア新書、2011年)

 この本では、メディアの情報を何でも信じないこと、真実を見抜く力をつけることの大切さを説いている。近年は、真実とは異なり、都合のいい情報を流すフェイクニュースという言葉をよく聞く。メディアの情報がすべて間違っているとは考えないが、なかには都合のいいように解釈したために、間違った情報が流れてくることがある。著者では、こうした間違った情報と正しい情報を見極める力をつけることが大切だと主張している。
 第1章の「戦争の作り方—三つの簡単なステップ」にある9・11の同時多発テロは、メディアの情報の正誤について考えるために良い例だと感じた。本章によると、9・11のテロ発生後、アメリカのメディアは、「自由への攻撃」と報道し、アメリカ国民の戦争感情をあおった。その結果、多くの若者が、祖国や家族を守るため、戦争に赴き、17万人の死者を出した。確かに、いかなる理由があれども、多くの人を苦しめるテロ行為は許されるものではない。しかし、良く情報を精査すると、テロを起こしたのは、国家ではなく個人であることやテロを起こすまで犯人を追い込んだのはアメリカではないのか、など戦争の正当性が疑わしい情報が出てくる。このように、メディアにあおられることによって、情報を精査させず、戦争に踏み切ってしまうことがある。
 前述の例を含め、この本での事例はアメリカを題材にしたものである。しかし、これらはアメリカだけで起きるものではない。日本にもメディアがある限り、陥る可能性がある問題である。そのため、我々もメディアと関わる際は、間違った情報に惑わされないように、気を付けなければならない。具体的には、様々な情報を見比べることが挙げられる。いくつかの情報源を持ち、それらを見比べることで正しい情報を見抜きやすくなる。
 我々がテレビや新聞で見るニュースは、気軽に情報を入手できる。特に近年は、ネットの発展により、さらに気軽に情報を入手できるようになった。しかし、メディアは常に本当のことを言っているわけではない。誤った情報に惑わされないための対策が必要である。(857)
返信
安食音歩さん (90lwzljv)2024/1/30 17:17 (No.1058021)削除
壊すべき固定概念ーー若桑みどり『お姫様とジェンダー アニメで学ぶ男と女のジェンダー学入門』(ちくま新書、2003年)

 この本は、作者である若桑みどりさんが川村学園女子大学にて、ディズニープリンセスの物語を題材にジェンダーの授業を行ってきたその軌跡である。この本が出た当時、まだジェンダーという言葉が今ほど浸透していたわけではなかった。そんな中で、誰もが知っているディズニープリンセスを題材に選ぶことで、同感性と親和性を出すことに成功している。
 私は本書の第2章冒頭で核心をつかれ涙を流した。「女の子の一生は(中略)憧れと夢想と幻滅の歴史である。」私たちは、それに気づいているはずだ。ずっと前に、私は美女と野獣のベルになりたかった。ダンスの苦手な野獣がベルと共にあの有名な曲の中で踊っている。あの世界に憧れていた。ベルの動きに合わせひらひらと靡く、あの黄色いドレスが着たかった。しかし私は現実を知ってしまった。自分自身の夢想と現実の相違に対し幻滅したのだ。私は目が悪くてメガネになった。ベルはメガネなんてしない。私は体力がなくて運動ができず太ってしまった。ベルは美しいスタイルの持ち主だ。私は女性ホルモンバランスの問題でコンプレックスが増えた。ベルはとても美しいプリンセスである。そしていつしか私は、スカートを履くという行為に嫌悪感を抱くようになっていた。考えたくもないこの感覚を思い出させられた。
 そして、私が本書の中で一番印象に残っているフレーズがある。「お姫様、自分で目覚めなさい」という最後の章で紹介された、授業内で生徒が書いた文章の一部だ。本書冒頭で語られていた、女性というものの他力本願さ。それが特にプリンセス作品の影響なのではないかという話題。物語の中のプリンセスは必ずと言っていいほど、王子が助けに来るのを待っている。幸せになろうと自分から動くのではなく、「いつか王子様が来て私を愛してくれる」と歌っているだけ。そこに向けた一言がこのフレーズである。インパクトが強く、とても共感できた。
全体を振り返って、「女性は受け身であるべき・男性は行動するべき」という固定概念をこの本は否定しているようだった。そしてそれは私たちの救いであり、私たちが望むべき未来であった。(876字)
返信
石川諒さん (90jnwxr9)2024/1/29 03:28 (No.1055999)削除
新たに生まれ変わる公共図書館――猪谷千香『つながる図書館―コミュニティの核を目指す試み』(筑摩書房、2014年)評

 公共図書館は現在、本を無料で貸し出すという従来の形態から脱して、地域を支える情報拠点にシフトし、町づくりの中心に図書館を据える自治体も出てきている。本書では全国の様々な図書館を例に、変わりつつある図書館の最前線について取り上げている。
 この本には「無料貸本屋」という単語が度々登場する。これは、1970年代から貸出冊数増加を推進してきた公共図書館の背景を表している。従来の図書館は、無料で本を借りることができるが、それ以外のことはほとんどできない、ただ本を借りるだけの施設になってしまっていた。しかし、本来の図書館は私たちの人生にチャンスを与え、私たちの暮らす町をより豊かにする可能性を秘めていると著者は語っている。
 本書では、全国の様々な図書館を取り上げているが、どの図書館も地域の特色や住民の特性を活かした異なる取り組みを行なっている。例えば、東京都千代田区にある千代田図書館では、本探しの手伝いをするコンシェルジュがいる。千代田図書館の近所には世界有数の本の町である神保町が存在するため、コンシェルジュにお願いをすれば神保町の書店のデータにアクセスし、欲しい本がどこにあるのか案内をしてくれる。それ以外にも、打ち合わせに使えるブースや、無線LAN、机、椅子、ホワイトボードが完備されている研修室、携帯電話を使えるコーナーがあり、飲料水なども持ち込める。こうしたサービスは「今までにない図書館」をテーマに、指定管理者制度を導入し、近隣に働くビジネスパーソンが利用しやすいよう、徹底的に設計されている。このような新たな形態で運営を行うことにより、全国から多数の視察者が訪れ、開館1年目の来館者数も100万人を突破した。
 これまで、公共図書館は「無料貸本屋」と言われてきたが、本来図書館というものは、その土地の歴史と記憶が保存されており、それと同時に本を通じた人と人との交流の場でもある。近年はコロナ禍の影響で、人と人との繋がりが薄くなってきているが、その現状を打破していくのは、新たに変わりつつある「つながる図書館」なのではないだろうか。 (867字)
返信
下嶋壮汰さん (90hy1foj)2024/1/27 22:36 (No.1054626)削除
考え方についての色々――パオロ・マッツァーリノ『つっこみ力』(ちくま新書、2007年)

 私が選択したブックレポートの本は、パオロ・マッツァリーノの『ツッコミ力』という本である。この本は、著者自身が講演をしているような文体で書かれており、時折演劇のようなものが行われているような描写もある。テーマとしては、現代日本の学問や教育・政治などに関して著者自身が疑問視している点を皮肉るような形で、批判しながら自身の考えや発想を述べていく。
特に印象に残っているのは、『メディアリテラシーという非常識』の章である。私は、メディアリテラシーについて特に疑問を持った機会がなかったのだが、それを「非常識」と言い切る姿勢に衝撃を受けた。それと同時に、直球かつシンプルな章タイトルに「一体、どんな内容なんだ?」と強く興味を抱かされた。この章内の構成は、メディアリテラシーについて知っていることが常識であるという認識への問題提起・問題視している理由の解説・統計などを用いた根拠の提示といった形である。そもそもメディアリテラシーとは、テレビや新聞、雑誌、広告が伝える内容には、制作側の意図による偏りが含まれるため、鵜呑みにせず、制作者の意図を考えた上で判断することを意味する。著者は、このメディアリテラシーに対して、「それを学んだところで、たいした意味も効能もない」と述べている。また、メディアリテラシーという言葉が、一般にはあまり浸透していないことも挙げている。著者は、「メディアリテラシーが常識となっていない証拠」として、2003年に行われた国立国語研究所がメディアリテラシーを取り上げた調査の結果を挙げている。その結果では、メディアリテラシーという言葉を知らないという人が9割近くであったというものだった。このように、著者は様々な手段を用いて自身の考えを立証しようとしていた。
この本全体の感想として、この著者の考えは著者自身が批判している様々な考えや風潮と同様のものなのではないかと考える。結局は、自身がどんな考え方をしたいか、自身の基本的な考え方に合っているものを信じることが重要なのであると感じる。(845文字)
返信
中村悠河さん (90d6wex3)2024/1/24 14:45 (No.1050914)削除
コミュニケーション教育の問題――平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』(講談社現代新書、2012年)

 現代の社会では、ただ漠然と「コミュニケーション能力」が、やみくもに求められている。いったい、人びとは、そこに何を欲しているのか、また近年、若者はコミュニケーション能力がないと嘆く人も多いが、はたして本当にそうだろうか、何が問題であるのかを現代口語演劇理論を提唱し、コミュニケーション教育に携わる筆者が、そこに感じる違和感を中心に書き進められている。また本著ではコミュニケーションにおける無駄(ノイズ)の大切さや、学校の授業は「メチャクチャに教えた方がいい」といった主張が、就活の企業の話、アンドロイドの話や演劇の話題、そして国語教育についてといった一見バラバラなトピックを交えながら説明されている。
 今回は特に1章「コミュニケーション能力とは何か?」がそれらを網羅的に問題提起していたため取り上げる。大きな問題として、学校教育の内容と社会が求める能力のずれがあるため、社会の要請に応じて、教育のプログラムも変わっていくべきなのだが、それがまったくなされていない問題と企業が就活生に求めているコミュニケーション能力は、ダブルバインド(二重拘束)の状態にある問題が挙げられている。ダブルバインドとは、二つの矛盾したコマンド(特に否定的なコマンド)が強制されている状態のことである。例えば、現在社会で企業が求めるコミュニケーション能力は異文化理解能力であり、異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の意見を伝えることができるようなグローバルな経済環境でも、存分に力を発揮できる能力である。しかしこれは表向きの要求であり、実際の要求は、「上司の意図を察して機敏に行動する」「会議の空気を読んで反対意見を言わない」などの従来型のコミュニケーション能力である。
 これらの問題を「コミュニケーション問題の顕在化」「コミュニケーション能力の多様化」という二つの視点で見ていくことでコミュニケーションの難しさ、社会が求めるコミュニケーションというものを筆者の直感を元に構成された本である。(842字)
返信
滝口克典さん (8zqpodji)2024/1/8 21:13 (No.1035447)削除
実験学校を多角的に考察――門脇厚司『大正自由教育が育てた力:「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』(岩波書店、2022年)評

 教育機会確保法(二〇一六年)成立から五年以上がたち、多様な学習機会を保障するべく民間で試行錯誤を続けてきたフリースクールが徐々に注目を集めるようになってきた。教科書も時間割もなく、教員でもない人びとが手弁当で学びと育ちの空間をつくりだし、不登校をはじめとする「学校に行かない子どもたち」を支援する〈もうひとつの学校〉。
 そう聞くと「それで学力や社会性は身につくの?」などとつい反応してしまうのが、本邦マジョリティの学校化された習い性であろう。だが、フリースクール運動のラディカリズムそのままの教育実践をそれよりずっと以前に学校制度の只中で果敢に実践した実験学校が存在した。約一〇〇年前に東京郊外で始まり、十二年で幕を閉じた「池袋児童の村小学校」(一九二四~三六年)である。
 本書は、本県出身の教育社会学者が、大正自由教育の象徴ともいえるこの実験学校のありようをさまざまな角度から明らかにし、その意味を考察した「児童の村」のモノグラフである。自由教育を推し進めた教職員側からだけでなく、実際にそこに通い学んだ生徒たち五〇名以上から話を聴き、その実態を明らかにした点が本書の強みだ。
 調査が実施されたのは、もと生徒たちがその後五〇年ほどの年月を生きた一九八〇年代初頭。「その後」を見れば、学校教育が彼(女)らに何をもたらしたかが理解できるという理路で、実際にそこでは、先の「学力や社会性は身につくの?」への答えが、同校にまつわる進学率等の量的データならびに当人たちの証言により雄弁に語られる。
 筆者もまた本県のフリースクール運動に深く関わってきた身ゆえ、本書の結論に勇気づけられるところがないわけではない。だが、本書も認めるように、学費が高額だった同校に子弟を通わせられる家庭という点を考えれば、彼(女)らの「その後」を規定していたのは自由教育というより出身階層ではないかという疑いは濃厚に残る。自由教育に価値があるとして、それを階層を越えていかに幅広く届けていくか。それは、一〇〇年後の私たちに積み残された課題かもしれない。(865字)
返信
滝口克典さん (8zqpodji)2024/1/8 21:13 (No.1035446)削除
無数の情報、自分を保つには――小林真大『生き抜くためのメディア読解』(笠間書院、2021年)評

 2022年、新しい「学習指導要領」が全国の高校で導入される。大きな変更があったのが「国語」で、これまで文学作品などを素材に、文章内容の理解に主眼を置いてきた国語教育に対し、「論理的・実用的な文章」であったり、文章のスタイルであったりをも学ぶかたちに代わっていくことになった。
 「論理的な文章」とは法律文や説明文、論説文など、「実用的な文章」とは広告やマニュアル、カタログなどのそれを指す。一方で文章のスタイルとは、そのメッセージがどんな形式で伝達されているかを指す。「文学作品のない国語なんて!」と早とちりしないでほしい。この変更には意味と背景がある。
 これらはどれも、情報化が進んだ社会のなかで、私たちがさまざまなメディアからのメッセージを適切に読み解いたり、あるいはそれを適切に発信したりできるようになるのに不可欠なもの。いわばそれは、現代的なメディア・リテラシーの養成を目的とした変更である。だが、そうした新しい観点からの教科書や副読本は未だほとんど見当たらない。
 このニーズに正面から応えたのが本書で、ニュース記事や広報、ブログ、企画書など、さまざまな形式のメディアとそのメッセージを批判的に読み解く方法について、それぞれの形式ごとにわかりやすく解説する。著者は朝日町出身の国際バカロレア文学教師。
 本書がユニークなのは、ニュース記事や製品マニュアルなどのみならず、報道写真や雑誌の表紙、政治家の演説文など、多彩な形式のメディアに光があてられ、分析されている点だ。いわれてみれば確かに、私たちの大半は、無数の情報メディアを環境として生きている。そのすべてに、私たちを特定の方向へと動かし、導こうとする意図がある。
 そうした意図の洪水のなか、自分というものを保とうとするには、最低限自らがいかなる意図に曝されているのかを自覚する必要がある。その意味で、本書の示すリテラシーの方法論は、2022年の高校生のみならず、現代を生きるすべての人びとにとって基礎教養となるだろう。(843字)
返信
滝口克典さん (8zqpodji)2024/1/8 21:13 (No.1035445)削除
「公共的役割」への理解 もっと――フィルムアート社=編『そして映画館はつづく』(フィルムアート社、2020年)評

 二〇二〇年は、新型コロナウィルス禍に席巻され、緊急事態宣言下でさまざまな人びとが苦境を強いられた一年間であった。たくさんの人びとが集まり、いっしょに何かをするような場所に大きな負荷がかかったが、本書は、そのなかでも特に映画館という場所に焦点をあて、この一年間の現場の奮闘を関係者の証言から明らかにしたレポートである。
 映画館といっても、郊外にチェーン展開する大規模なシネコンから、街中でひっそりと営まれる隠れ家的なミニシアターまでさまざまだが、本書が照準するのは後者だ。登場するのは、全国各地の映画館主や配給会社、上映関係者などで、それぞれの現場の来歴とそれを受けたこの一年間とが、当人たちの生の声で語られている。山形市からはフォーラム山形、同社で番組編成を担当する長澤綾さん(一九七九年生まれ)のインタビューが収録されている。彼女に限らず、登場する人びとの多くが団塊ジュニア以降の三〇~四〇代で、総じて映画館や上映の世界で世代交代が進んでいることが見てとれる。
 印象的だったのは、収録された語りの多くに通底する「映画館の公共性」という問題意識である。従来、営利目的の興行の場と位置づけられてきた映画館だが、実質的には、多様性や多文化を学べる社会教育的な施設、居場所のない人びとにそれを供給する場、さらにはまちづくりの拠点など、多彩な社会的役割を担っている。緊急事態宣言下で行われたクラウドファンディング「ミニシアター・エイド基金」には三億円の支援金が集まったというから、その公共性は明らかだろう。
 しかし、各現場はこれまで、それぞれの自助努力においてそうした公共的な役割を担ってきたにすぎない。もちろんそれはとても素晴らしいことだし貴重なことだ。だが、果たしてそれを今後もミニシアター個々の自助に任せたままでよいのだろうか。映画館の公共性をきちんと位置づけ、公助で保障していくしくみが必要ではないか。コロナ禍は、そうした映画館という場所そのものをめぐる問いをも改めて浮き彫りにしたのである。(843字)
返信
滝口克典さん (8zqpodji)2024/1/8 21:12 (No.1035443)削除
貧困、格差問題に迫れるか ――山崎亮『コミュニティデザインの源流 イギリス篇』(太田出版、2016年)評

 「コミュニティデザイン」を提唱し、各地で実践する著者が、その源流を求めて、産業革命後の19世紀イギリスの実践家たちの思想をたどる思索の旅の記録、それが本書だ。著者は東北芸術工科大学(山形市)教授、コミュニティデザイン学科長である。
 とりあげられているのは、美術批評家=社会改良家として活躍したジョン・ラスキン(1819~1900)をはじめ、彼を中心とする知的なネットワークに属する9人の実践家たち。「生活に美しさを」をコンセプトとするアーツ・アンド・クラフツ運動の基礎をつくったウィリアム・モリス(1834~1896)、貧困地域に知識人が居住し問題解決を支援するセツルメント運動を牽引したアーノルド・トインビー(1852~1883)、「田園都市」を構想し近代都市計画に大きな影響を与えたエベネザー・ハワード(1850~1928)、そして理想社会の建設を夢見て協同組合運動や労働運動にとりくんだ社会主義の先駆者ロバート・オウエン(1771~1858)などが、一人ずつていねいに紹介されている。どの人も、それぞれの専門分野でかなり有名な人びとである。
 本書がユニークなのは、そんな彼らをもとの歴史的文脈へと連れ戻し、彼らが共通して属していた知的なサークルとその雰囲気を描き出している点だ。そこから改めて見えてくるのは、上記のどの運動・理論も、産業革命後のイギリス社会が苦しんでいた貧困や格差の問題に対する市民活動という側面を共通してもち、そこから派生してうみだされた多様な方法であったという事実である。
 こうした一群の人びとこそが「コミュニティデザインの源流」と著者は書く。それまでも各地で行われてきた地域づくりや地域学を「コミュニティデザイン」と名づけ直し、新たにパッケージして商品化し成功をおさめた著者が、今度はその射程に社会主義をも捉えたかたちだ。貧困や格差の問題に、果たしてそれはどこまで迫ることができるだろうか。「コミュニティデザイン」の真価、真贋が問われている。(832字)
返信

Copyright © 生涯学習支援論, All Rights Reserved.