授業の課題・ふりかえり等をシェアするための掲示板です。指示に従って書き込みください。

掲示板

BBS
アイコン設定
投稿者さん使い方

掲示板の主旨に反する投稿は掲載されません。掲載の是非は管理者が判断いたします。予めご了承願います。
髙橋凜さん (8lxiipbq)2023/1/25 22:10 (No.680681)削除
ワークショップの可能性

中野民夫『ワークショップ-新しい学びと創造の場-』岩波書店2001年

 「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではない」という言葉があるように、美しいものを美しいと感じる感覚や、新しいものや未知のものに触れた時の感激など様々な形の感情が生まれることから見つけ出した知識は、しっかりと身につき、より学びを深めることができる。そうした人々の感情を引き出す為に「ワークショップ」というひとつの手法が必要であると感じた。
 本書は、学校教育、企業研修、環境教育、芸術活動、まちづくりなど様々な現場で注目されている「ワークショップ」という手法について、多くのワークショップの企画・運営に携わってきた著者が豊富な事例をもとにその意義を語ったものである。ワークショップとは何か、歴史や背景、「個人や社会」「創造と学び」を軸としてワークショップを分類し、幅広い分野でワークショップを活用することができると感じた。
 特に、「第2部 ワークショップの実際」では著者が出会ったジョアンナ・メイシーの「つながりを取り戻す」ワークショップについてや、著者自身がそこから学びを深め編み直して企画した「自分という自然に出会う」連続ワークショップについて記されている。どちらのワークショッププログラムも人の心の動きに配慮して「起承転結」の流れが意識されており、参加体験の仕方にも様々なモード(様式)が盛り込まれている。そうした、「参加者を思いやる心」がワークショップを企画する上では重要なことであり、また、参加者の反応や状況を読みながら臨機応変に対応するファシリテーション能力も必要になることが読み取れた。
 ワークショップは、「非日常」的な体験であるからこその可能性がある一方で、限界や注意点もあると著者は述べている。私自身、ワークショップは楽しいもの、ワクワクする体験ができるという面が強く、本書で述べられていた「ワークショップ中毒」という言葉が印象的だった。ワークショップはひとつの出発点であり、そこで得た学びをきっかけに、日常の現実にしっかり向き合いながら気長にやっていくことが重要である。
 ワークショップという場の持ち方、作り方には、持続可能な社会を形成する為のヒントがたくさん含まれている。私たちが今学んでいる「ワークショップ」という新しい学びと創造のスタイルにはどんな可能性があるのか、今まで培ってきた経験と本書を照らし合わせることで、より学びを深めることができた。(983字)
返信
篠原千尋さん (8lxg8gne)2023/1/25 21:06 (No.680596)削除
差別と向き合う ーー好井裕明『差別原論 −〈わたし〉のなかの権力とつきあう−』(平凡社、2007年)

 差別をどこか遠い世界のもの、自分とは無関係なもの、そう思ってはいないだろうか。しかし、人をカテゴリー化し勝手なイメージで決めつけ先入観から何気ないからかいや軽蔑をしている。そんなことはないだろうか。
本書はそんな差別との向き合い方について書かれた一冊である。
 著者は社会学に関して学び、差別に関する研究と共にフィールドワークや書籍の発行を行なってきた。本書ではそうして差別に向き合ってきた著者が自身の差別に関する体験と映画作品を例に交えながら差別についてどう捉えるべきか論じられている。また本書では「構え」「とりつくろうこと」「いま、ここで」といった言葉がキーワードとなっている。これは私たちが差別と対峙したときにそれまで柔軟に動いていたのに差別をできるだけ起こって欲しくない出来事、起こるはずのないこととして理解しているため差別に対して「構え」、今あなたは差別をしたと人に指摘されると自分がそんなことをするはずがないと「とりつくろうこと」に専念し、とりあえず指摘に対して理解し反省したふりをしてしまうのだ。そして差別は対岸の自分とは関係ない場所で起こっているものではなく「いま、ここで」起きているということ、さらに言えば“自分も差別をしてしまう可能性のある存在”なのだとこの3つの言葉と共に説かれている。
 私自身、差別をしてはいけないもの、許してはいけないもの、そして自分には経験のないものとして捉えていた。しかし本書を読み、そうした考えのままでいることの危うさ、差別と私たちとの関係や差別と生きていくために必須なものの考え方に触れ、今一度差別と向き合い、自らを見直すきっかけとなった。
あなたもぜひこの書籍を手に取り、差別と向き合いどう付き合っていくかを考える機会にしてみてはいかがだろうか。私と同じように「差別」を”差別をする人、そしてそれを受ける人”だけのものとして捉えている人にこそ読んでほしい一冊だ。(802字)
返信
瀧 久瑠美さん (8lxg74k2)2023/1/25 21:05 (No.680592)削除
「山崎 亮 著  コミュニティデザインの時代」を読んで

「デザイン」と聞いて何を想像するだろうか。建物をデザインする建築デザイン、ポスターや広告やパッケージをデザインするグラフィックデザイン、キャラクターをデザインするキャラクターデザイン………というように、「形のあるものをデザインすること」をデザインすることを最初に思いつくかもしれない。今回私が読んだ新書は「コミュニティデザイン」つまり「場」をデザインすることについての内容だった。
本書では、現代での地域での人々の繋がりの希薄さについて触れていた。昔は、ご近所との関わりが結構あったようだ。たとえば、冠婚葬祭を行うとする。現代のように冠婚葬祭の専門職の人ではなく、自分たちで行っていた。一家族だけでは人手が足りないので、近所の人の手を借りることになる。こういったことで、地域の人との繋がりがあったのだ。しかし今は、近所の人ではなく、冠婚葬祭の専門職の人に頼むことになる。また、まちのことはそのまちに住む人がしていた。今なら、例えば道路に動物の死骸があったとする。それを見つけたら、行政に電話をするだろう。このように、人々の関わり方は非常に薄くなっている。この影響で、孤独死をする人もたくさんいる。亡くなったことを誰にも気づいてもらえないのだ。昔のような人との関わり方は、もちつもたれつということもあったが、江戸時代からある「監視」という面も持っていた。それは堅苦しいものであったが、それから解放されると「孤独死」など、新しい問題をうむようになってきた。ここで出てくるのが「コミュニティデザイン」だ。コミュニティデザインは、最初に上げた建築デザイン、グラフィックデザイン、キャラクターデザインらとは異なり、「モノ作り」のデザインではない。モノ作りをしない、「場」をデザインするものだ。
私が所属する総合美術コースも、ワークショップという場を作る(デザインと言い換えることもできる)ということ、社会とアートを繋ぐこと(アートで地域社会の人たちとの繋がる)を学習し、実践している。コミュニティデザインは、専門的に学んでいることと似ていることだと思った。本書で特に印象に残った部分は、「デザイナーがコミュニティをつくることはできない。しかし、人々が集まる場所をつくることはできる。そして、コミュニティ意識を醸成することはできる(p120)」という部分だ。人との関わりが生まれる今後行う場をどうやって作っていくか、今後のワークショップに活かしたいと考えている。
(1020字)
返信
太田彩希さん (8lxf9zhu)2023/1/25 20:39 (No.680551)削除
教科書だけじゃ伝わらない貧困――阿部彩、鈴木大介 著『貧困を救えない国 日本』(PHP新書、2018年)評

 貧困は問題であり、まずいことだ。解決しなくてはいけない。それはそうだ。苦しんでいる人が今この瞬間も世界に大勢いるのだから。では、どうして貧困問題を解決しなくてはいけないのだろうか。世界には貧困に苦しむ国や人々がたくさん・大勢存在するが、日本はどうだろうか。日本は、日本に住む人々は、貧困なんかじゃないのだろうか。誰が貧困を生み出しているのだろうか。
 本書は文筆業に携わる鈴木大介と、社会政策学者である阿部彩の二人が貧困について様々な観点から語る、対談形式で綴られている本である。社会問題や政治がテーマの本は専門用語ばかりで、前提として本で取り上げるテーマについてある程度の理解と知識を持ち合わせていることが求められるような気がするが、本書は二人の対談を聞く気持ちで軽く読むことができるため、実際の事例・事実やそれを裏付ける数字のデータも非常に読みとりやすく理解しやすいものになっている。本書を読み始めてから読み終わるまでの約300ページの間、ずっと「なるほど」「確かに」と納得してばかりだった。
 例えば、日本に絶対的貧困は本当に存在しないのか?という話。相対的貧困に苦しむ親子の家庭があったとして、ギリギリを生きるために親は働くてはならない。家にいて子供の面倒を見れる時間がない、家で休むことのできる時間がない、「時間的貧困」が生まれてしまう。ネグレクトが発生してしまうことが考えられる。その結果、お金だけ置いて親は仕事に出かけてしまう。親がいない間にお金も食べ物も管理できない子供は一晩でも飢えを経験するかもしれない。一晩でも絶対的貧困は存在している。このように、どの議論でも少しずつ理解しながら読み進めることができるものになっている。
 大学の授業でも、貧困問題が取り上げられることが少なくないことかと思う。その中で「こども食堂」が話題にあがったことはないだろうか。もちろん本書でもこども食堂に触れている章がある。「(前略)こども食堂をやったからといって子どもの貧困対策やりました、なんて大きい顔をしないでくださいね」という言葉も、本書を読めば「確かにそうだな」と納得させられてしまうのだ。気軽に読み進めることのできる本であるため、少しでも気になった人は本書を手に取ってみてはどうだろうか。
943文字(改行・空白を除く)
返信
佐々木愛花さん (8lxdzb1n)2023/1/25 20:03 (No.680516)削除
コミュニティデザインとは何か 山崎 亮『コミュニティデザインの時代 自分たちで「まち」をつくる』 (中央公論新書 2016年)

最近では人と人との繋がりが希薄になっていると感じている。厚さ数十センチの壁の先で人が孤独死していても気が付かないし生活し続ける。繋がりが分断された社会は、誰も望んだ事ではないはずなのに何故ここまで分断されるのか。日本の総人口はどんどん減りハードの整備に力を入れる時代は終わる。行政に全てを任せるのではなく住民が参加しなければいけない時代が来る。21世紀は住民参加の時代だと筆者は言う。
 昔の商店街は沢山の人で賑わっていたが、今はシャッターが閉まり昔ながらの店がちらほらある程度で、シャッターに落書きされている始末。国勢調査のデータでも人口が減少している事が分かる。最近200年では人口の増減の差が激しいが、直近では減少の一途を辿っている。
 本書で自分が一番驚いた記述は、「適正人口」と「適疎」という言葉と考え方だった。空想とあるがある意味現実的とも言える内容で、3500万人程居れば「無理せずに生きていける規模」であり、それは江戸時代の鎖国中の人口と同等である。「適疎」というのは、読んで字のごとく適切に疎ら(まばら)である事で、将来の人口の規模を考えながら今後の生活を模索するのがいいと語る。
 近年、人口減少先進地域も現れた。50年後予想が人口倍増ではなく半減するような地域が増えるからこそ、「人口が減っているのに楽しい暮らしが出来る秘訣は何か」、「人口が少ないのに住民の満足度が高いのは何故か」という情報を国や市町村は求めている。
 自分の地元でも言えた事であるが、地縁型コミュニティの力が弱くなっている。行政の予算が減り任せる事があまり出来なくなってきているからこそ、住民が出来る事を住民が取り組んでいく必要がある。
 これまでの内容は本書の概要や一部に過ぎない。内容は多岐に渡っていて、「まちづくりのワークショップの事例」や「コミュニティデザインデザインの方法や進め方」、「山間地域や離島などのコミュニティデザインの実践」も掲載されている。
 また芸工大の教授をしている経歴を持っているので、是非ともお話を聞いてみたいと思った。(852字)
返信
宍戸亜由美さん (8lxbm0p2)2023/1/25 18:57 (No.680451)削除
―女性の労働環境は果たしていいと言えるのか-上野千鶴子「女たちのサバイバル作戦」(
2013年 文藝春秋)

私はすごく不安を覚えた、という感想が最初に出てきた。
現代社会では男女の差を無くすための法律や、会社でも女性進出を押し進めているところが多いのではないのだろうか。女性が働きやすい職場、というのが最近のキーポイントであり、それは就活生の私にとっても、よく聞く言葉になった。そうすると一見、社会での女性の労働が保障されたようにみえるが、果たして女性の職場環境は本当に改善されているのだろうか。今回読んだ本書の著者、上野千鶴子氏は“無理に答えを探して”「イエス&ノー」と綴っている。では、なぜか。
本書では労働での女性への性差別について書かれている。いわゆるフェミニズムと呼ばれるものだ。特に着目したいところは、女性任せの家庭や介護だ。今では女性が働きにいき、男性が家で家事をする「主夫」という言葉が出てきた。これらは男性に対して称賛の言葉を送っている。しかし、それは差別である。本書でも出てきたが、女性はそれらを背負いながら仕事と家庭の両立を図っている。すなわち、それが指すこととして、現代社会では女性が働きながら家事や育児をすることが「当たり前」であるからだ。女性への言葉に対して、「イクママ」などという言葉はない。その現象が社会の一部として、昔から何の変哲もなく存在しているからだ。家事や育児をどちらがやろうが関係はない。女性がやることになった風潮こそが女性を生きづらくしているのだろうな、と本書から考えた。
こうした女性の立場が危ぶまれている状況は、本書が発売された2013年と現代でどう変わっただろうか。私が思う答えは「イエス&ノー」。著者はどう考えるか分からないが、8年で良い方に変わったことがそんなに多くない、と考えてしまった。その結果として、いまだに日本は、先進国の中でもジェンダーギャップ指数が低い状況である。女性の立場が変革を遂げていないことは悲しいことであるが、これから社会人として見ていかなければならない。そんな世の中に不安を抱えつつも、サバイバル作戦を立て、本書をお守りとし、生き抜いていくと決意を持つことが出来た一冊だった。(867文字)
返信
斎藤天音さん (8lxa7iir)2023/1/25 18:18 (No.680409)削除
教育現場とメディアーー菅谷明子『未来をつくる図書館:ニューヨークからの報告』(岩波新書、2003年)評

 メディアに対する問題意識を持つ著者が、イギリス、カナダ、アメリカの3カ国に焦点を絞り、メディアリテラシーの基本的な理念や歴史的経緯を押さえつつ、各国の教育現場、メディア業界の取り組み、市民団体の活動を拾い上げた、メディアリテラシーの実践の現場レポートである。報道の客観性や公正さ、暴力表現の影響などが議論になっている今、メデイアのあり方を具体的に解読していくことの意味とその可能性を探っている。

 著者である菅谷明子は、米国ボストンを拠点として活動する日本のジャーナリスト。アメリカのニュース雑誌「ニューズウイーク」日本版編集部に勤務していた時に、ニュースは現実そのものを伝えているのではないと考えるようになり、メディアリテラシーについて問題意識を持つようになったそうだ。

 この本は、5年にも及ぶ取材をして100人にインタビューし、1冊の本に仕上げた。
 イギリスでは、メディアが国語のカリキュラムで教えられている他に、中等教育で独立した科目として存在する。カナダではテレビ局がメディアリテラシーを全面的にサポートする姿勢を明確に打ち出す、世界でも稀な放送局が存在する。アメリカでは取材から執筆、番組制作まで全てを自分たちの手で行う「子どもジャーナリスト」が活躍している。
 日本の状況などは全く触れず、イギリス、カナダ、アメリカでの情報教育についてルポ形式で描写している。筆者も学びながらルポしている為、いろいろな立場から偏らずに世界の学校での情報教育の有り様をこの本で伝えている。

 情報教育を学校教育の正式なカリキュラムとしているところもあれば、「そんなの勉強するくらいなら基礎教科を勉強しろ!」というような流れもある。情報を単純に批判するのではなく自分でビデオなんかを作りながら情報の出来てゆく様を知ろうというような教育も行われている、と延べ、教育現場の様子に丁寧に追っている。(784文字)
返信
斎藤天音さん (8lxa7iir)2023/1/25 18:18 (No.680408)削除
メディアの性質をわかりやすくーー内田樹『街場のメディア論』(光文社新書、2010年)評

 この本では、新聞・テレビ・出版業界などの既成メディアの危機が騒がれる中、その原因の本質がどこにあるのかを探りだそうと試みている。
 2007年に行われた「メディアと知」という題名の大学二年生対象の入門講義の中でされた学生の発題とディスカッションがあり、そのライブ録音をテープ起こしし、編集者によって編集されて1冊に仕上げた本であり、20歳くらいの女子大生が理解可能なロジックを使い、メディアについて語られている。

 著者の内田樹は、神戸女学院大学の講師。著書に「街場の」とつくシリーズの本を出版しており、いずれも大学の講義を録音して1冊にまとめている。

 本の内容は、「です・ます」形式の語り口調で書かれているため、実際に大学の講義を聴講しているような感覚で読み進めることができる。
 マスメディアが危機に陥っている原因に、「正義」の暴走をしていると述べる。「メディアは『常に正しいことだけを選択的に報道している』というありえない夢を追います。この態度は僕は病的だと思います。」の記述をはじめ、批判から逃れる知性と弱者、メディアは定型で語る、暴走するメディアがメディア自身を殺す、世界について嘘をつく新聞というようにメディアに対して批判的な主張をしている。

 また、教育や医療に対する、「世論」を背景にした報道の無責任さ、あるいは無責任な言論を奨励する報道スタイルに対して、怒りをあらわしている。

 劣化したジャーナリズムの被害を受け、崩壊寸前になっている教育・医療の代表として、ジャーナリズムを糾弾している。

 「最終的な責任を引き受ける生身の個人がいない。」「僕たちが今読まされている、聴かされている文章のほとんどは、血の通った個人ではなく、定型が語っている。定型が書いている。」と、メディアの本質は何であるか著者なりに分析し、読者がハッとして納得するような内容になっている。メディアの本質と生き延びる道に関する考察を多角的に行っている。(807文字)
返信
斎藤天音さん (8lxa7iir)2023/1/25 18:18 (No.680407)削除
つながりが希薄化する社会をデザイン ーー山崎亮『コミュニティデザインの時代:自分たちで「まち」をつくる』(中公新書、2012年)評

 孤立死や無縁社会という言葉が毎日口にされる現在の日本。今こそ人とのつながりを自らの手で築く必要が痛感 されている。この時代の声に応え、全国で常時500以上のコミュニティづくりに携わる著者が初めて明かす、住民 参加・思考型の手法と実際。 「デザインしないデザイン」 によって全員に参加してもらい結果を出すには? 話の 聴き方から服装にいたるまで、独自の理論を開陳する。ビジネスの場でも役立つ実践的な書である。

 コミュニティデザインとは?「公共」と言われる共同活動が失われた今、個人である「私」と「公」を繋げる活動をいう。
 ファシリテーターとしての心構え、雰囲気、コミュニティデザイナーとしての資質、行政との付き合い方など具体的に書かれた本である
講演会などでの質問を受けて、補足的に書き始めたものが書籍化された。

 著者は東北芸術工科大学デザイン工学部コミュニティデザイン学科初代学科長。地域の課題を地域に住む人たちが解決するためのコミュニティデザインに携わる。

 コミュニティの定義、人口減少の対しての本質の課題とは何か、ファシリテーターとしての雰囲気づくりとは、など、著者と対話しながら講義を受けている感覚になれる。

 持つべき技術が10あると言い、第四章では、それを頼まれればいつでもできるという状態でなければコミュニティデザインはできないと述べている。
 話す(司会進行や講座などを担当することができる)、書く(議事録や記事や論文などを適切な文章表現で書くことができる)、描く(図面やスケッチやイラストをささっと書くことができる)、調べる(適切な事例や地域の資源を素早く見つけ出すことができる)、引き出す(対話の中で相手のやる気や思いや意見を引き出すことができる)など、必要となる場面と必要な行動を具体的に書いてる。(744文字)
返信
斎藤天音さん (8lxa7iir)2023/1/25 18:17 (No.680403)削除
上手な組織運営のための会議ーー吉田新一郎『会議の技法:チームワークが開く発想の新次元』(中公新書、2000年) 評

効果的な会議の運営方法を紹介している。
会議のマイナスイメージを見直し、問題点を挙げて、どうすれば会議が円滑に進み、チームワークが形成されるかを、会議の準備から運営、発表方法、具体的に情報やアイディアを共有するところまで具体的に述べている。

 著者の吉田新一郎は、長年自治体や企業を対象にしたコンサルティング活動に携わるかたわら、NGOの普及・啓発のための活動を行ない、学びと出会いの環境と仕組みをデザインする「ラーンズケイプ」の代表を務めている。
 学びと出会いの環境デザイン・コミュニティ形成のために、会議を沢山開いている経験から、事細かく具体的に「いい会議の運営」とはどのようなものか分析されている。

 第二章では会議をはじめるにあたって、これまでの形式の木々の課題や問題点を見つめ直している。「悪い会議」と「よい会議」がそれぞれなんなのかが述べられている。
 「悪い会議」の例にある、何も準備なしにただ集まってダラダラとまとまりのない話になってしまったり、進行役がその場を取り仕切ろうとするとつい自分から意見を話してしまったりなど、何かしらの会議に参加したことある人なら共感できることを、わかりやすく箇条書き形式で並べられている。

 第三章では会議を運営するために大事な準備や運営側の心構えについて取り上げられている。例えば、アジェンダを事前につくって参加者に事前配布をし、会議の明確な目的を定めること。進行役はファシリテーター(直訳でものごとを容易にする、楽にする、促進する人)であって、参加者の意見をよく聞き自らは話さないことがスムーズに会議が進行できるということである。

 ついやってしまいがちな会議のダメな運営方法にしっかり具体的な対策が述べられていて役立つ。コミュニティをうまく作りたい、アイディアが出やすい組織運営がしたいと思う人のバイブルになる本である。(775文字)
返信

Copyright © 生涯学習支援論, All Rights Reserved.