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小野聖弥さん (8lx8ultj)2023/1/25 17:39 (No.680366)削除
メディアと向き合う

菅谷明子著『メディアリテラシー 世界の現場から』 岩波新書 2004年11月12日 発行

ニュースから何を得ていますか?
映画をどう観ていますか?
新聞には何が書いてありましか?
メディアをどのように考えていますか?
これらの問いに対して明確に答えが出ない、初めて考えた人に是非とも読んでいただきたい一冊です。
メディアリテラシーとは何か。
本書において、数多ある情報について真偽、背景を含めて情報を読み取り、活用していく力をさしている。
インターネットは日進月歩で進化を続けており、メディアのあり方や発信方法が移ろうこの時の中で情報の受け取り方も変えていかなければならない。
その為にメディアを学び、理解していく必要があると。
この本は5年もの取材期間を費やし2004年に執筆されました。
その為、現代と比べると技術力が違いすぎて参考にならないと感じるかもしれません。
私自身は本書を読む前までは先述のように考えており、現代との差異について比較しながら読み進める予定でした。
しかし、本書に記述されている内容はまるで現代に書かれたかの如く、現代を投影している内容となっています。
ここが私は純粋に面白いと感じました。
20年前に書かれている本に現代の写鏡のような描写がされている為です。
メディアから発信される情報、その情報をどの様に活用していくのか、将来必ず必要になる力を未来の大人達である子供達にどの様にして伝えていくのか。
メディア発祥の地とも言えるイギリス、技術力、ビジネス力で超大国に上り詰めたアメリカ、そのアメリカとの隣国であるが、独自の文化、風土のもと進歩してきたカナダそれぞれの教育現場に密着した記録と共に、時代背景による教育への影響を交えつつ解説されています。
本書の情報も然り、メディアには発信源の意向が含まれており、何が現実か、どの様に活用していくのか、情報社会となった現代において今一度再確認する必要があるのではないでしょうか。
これからメディアリテラシーを考える、再確認する、この機会に是非手に取ってみて下さい。
(803文字)
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後藤真咲さん (8lx88ftl)2023/1/25 17:22 (No.680349)削除
私たちの知る「貧困」は本当の「貧困」なのか?ーー阿部彩・鈴木大介『貧困を救えない国日本』(P H P新書 2019年)評

 貧困とは所得が低く生活水準が低いことではない。自身の生活に対して不安や苦痛を感じつつもそこから抜け出すことが困難な状態だ。と本書には記されている。貧困問題について「日本に貧困はない」と本気で思っているひとはいる。逆に平均より所得の高い世帯が「自分の家は貧困だ」という認識が多いのも事実である。日本の貧困に対しての意識の現状、その原因、なぜ貧困を放置してはいけないのか、支援者と対策について海外の貧困対策とともに論じられている。
 本書は対談式で記されているため著者の伝えたいことがある程度同じニュアンスで読むことができる。貧困に対して専門的な目線だけでなく一般人目線の鋭い意見も多くあった。その中で一つ例を挙げる。女性の貧困問題を総じて「若い女性の貧困問題」と括られていることに憤りを感じるといった話題があった。内容としては若い女性の貧困の話になると必ず「貧困だと子供が産めない」といった意見をいうひとがいる。それに対して著者の1人が貧困と出産の可能か否かは関係ないと発言していた。話題の切り口にコメンテーターV S現場を直に調査してきたライターといった雰囲気を感じた。「他には所詮他人事の域を出ない。という気持ちが皆少なからずある。」といった読み手にも刺さる言葉があった。こういった淡々と文章で述べられるのではなく読み手がその場で話を聞き共に論じている気分で読むことができた。
 本書を読んで私は、日本の貧困に対しての意識、現状を知ることができ、更にはその根源、今後変えるべき点を学ぶことができた。貧困への向き合い方としてそもそもの意識、広めるメディア、支援する側、政治としての対策といった具体的な情報を身近な言葉(専門的用語も含めつつ話し言葉が多い)で得ることができる本だと感じた。綺麗事かもしれないが法律や憲法を理由に貧困へ向き合うだけでなく情で助け合う意識がなければ「日本が貧困を救う」ことはできないレベルにまで達してきているのかもしれない。(820字)
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熊谷有紗さん (8lx7xa44)2023/1/25 17:13 (No.680342)削除
自分で考える力
中野民生 『ワークショップ−新しい学びと創造の場−』岩波書店 2001年

ワークショップとは何か、という話を起源や歴史から噛み砕き、著者が関わった日本内外で行われた実際の事例を交え、その可能性、そして限界と注意点、それらの学びの応用、ほかの分野でどういかせるかを我々に咀嚼しやすいように説明している。日本の典型的な師から与えられる一方通行の学びではなく、参加型の平等な学びを「明るい兆し」と捉え、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではない」という言葉があるように美しいと感じる感覚、喜びや悲しみなどの感情それらを経験することで人は学びを深めていくのだ。ワークショップが人にとっての根源的な喜びを内在した魅力的な方法なのかもしれない。

ワークショップの楽しい一面だけでなく、この集団で一つの物事を行うという形式は自己啓発セミナーやカルト宗教などもよく使う。声が大きいかつマイナスのイメージが多いこれらの活動との明確な違いとして前者は参加者を縛り思考を統一しようとするが、後者は自分自身の考えをはっきりとしていくものである。ワークショップは学びの形式として「明るい兆し」と言われる様に期待の多いものだが、我々は数回の参加程度で急に積極的になったり、人間関係がうまくいくようなことになったりはほとんどないということを肝に銘じておくべきである。

ここでワークショップの応用や、ほかの分野でどういかせるかについてだが私が一番実際に運用できたら良いなと感じたのは会社の会議である。一方通行の学びを与えられて育ってきた我々にとって師のような存在になりうる上からの圧と、話合わなければならない状況は双方の嫌な部分を合わせたような状況である。それらを解決すべく席の形を工夫したり、解決のプロセスまでの構築を変えてみたり、とにかく「話しやすい」場を作ることが第一歩なのだと感じた。

本書はワークショップという題名だけあり、かなりこの物事に対しての解像度が上がった。受動的ではなく少し積極的に動くことで見える世界は変わってくるのかもしれない。(824字)
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寺田玲乃さん (8lwz57n9)2023/1/25 13:08 (No.680124)削除
差別と日常−−好井裕明『差別原論 −〈わたし〉のなかの権力とつきあう−』(平凡社出版、2007年)評

「性差別」「人種差別」「民族差別」「宗教差別」「障害者差別」私たちが生きる現代は多くの『差別』で溢れている。「差別なんか、私は絶対にしない」いったいどれくらいの人が自信を持って断言できるのだろうか。そもそも『差別』と無縁な存在などあるのだろうか。『差別』とは一体何なのか、『差別』のどの部分がいけないのか、『差別』をなくすこと自体、可能なのか、我々は『差別』の根本的な部分を見つめ直す必要がある。

本書は、著者である好井裕明氏の周りに繰り広がられる差別についてのエピソードや具体的な体験談などを交えつつ、その問題と向き合うときの姿勢、差別とつきあう方法などをまとめている。著者は、差別は回避できないものでいつか自分も行ってしまうものであると説き、差別との切ってもきれない関係、私たちに関係のある事柄として考察している。そのため、サブタイトルに『〈わたし〉のなかの権力とつきあう』と書かれているのだろう。

教育の場などでも、いじめなどをきっかけに「差別」が大きく取り上げられるようになったが、学校では 「差別をしないこと」が要請され、「差別をしない存在、許さない存在」になれという声がうんざりしてしまうほど反復される。これがかえって、こども達に『構え』や『こわばり』を与え、問題の繰り返しとなっている。教えるべきことは、差別との向き合い方である。『差別は「してしまう」ものであり、「あってはならないと思うが、そのためには、何をどのようにして続けたらいいのか」と自らが日常生活のなかで考え、色々と実践するうえでの“意味ある手がかり”である』ということに気づくことが重要だ。

誰であれ、どのような場所で生きていようと無意識に差別をしてしまう可能性はある。自分たちを「普通の人」という安全地帯にかくまい、自分がしてしまっている差別と向き合う機会を失うことこそが、1番の危険だ。本書を通して、多くの人に差別との向き合い方を改めて考え直してもらいたい。(816字)
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高橋七海さん (8lwv6ikc)2023/1/25 11:17 (No.680023)削除
猪谷 千香『つながる図書館: コミュニティの核をめざす試み 』(ちくま新書 2014年)評

全国から気になる図書館を紹介し図書館とは?の問題提起しているような本。
本書は、図書館界で脚光を浴びる地に赴き、図書館の運営や成り立ちについてまとめている。

本を貸すだけが図書館の仕事ではないということ。
課題解決型のビジネス支援図書館や指定管理者制度についても非常に興味深い。
一般社会や一部マスメディアといわれるところからの取材は一方通行な見方しか出来ないような取材方法が多いが、本書は客観的で丁寧に書かれている印象がある。

初めの方、P15~P16にかけて“この本では、変貌する公共図書館の最前線にあり、私たちがまだ知らない「他の町の図書館」を紹介したいと思う。なぜなら、公共図書館とは、赤ちゃんからお年寄りまで利用者の年齢を選ばず、職業や収入も選ばず、無料で使える稀有な公的施設である。そして、私たちの人生にチャンスを与え、私たちの暮らす町をより豊かにする可能性を秘めている施設でもあるからだ。「無料でベストセラーを借りられる図書館」しか知らない方がいたら、お節介を承知の上で「あなたの人生損してますよ」と声をかけたい。”や“人と本だけではなく、人と人をつなぎ、コミュニティの中で新たな役割をになっている図書館の姿”とあるが、この本では、色んな県の図書館について、客観的に書かれている。また、この2つの文はとても本の導入としても読む人に対してのわくわくを与える書き方に思える。
島をまるごと図書館にしてしまった島根県海士町の事例もタイトルを副題?を見ただけで気になるような題で、島をまるごと図書館にしてしまうというのはどんなものだと気になって最後まで読んだが、その土地らしい図書館というのは他の土地ではあまりないため、新鮮に感じた。

正直、個人的に最後まで読んで感じたことは、図書館運営者の頑張りをクローズして紹介するあまり、図書館に対しての取材は客観的で酔いが、利用者の本音が見えてこないような内容で少し残念な気持ちになった。(811字)
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小山三四郎さん (8lwtuluk)2023/1/25 10:39 (No.679991)削除
自他の認識とは 河西英通『東北:つくられた異境』(中公新書、2001)

 日本全土の約17%を占める広大な土地を有する空間で一括りに一体感のある場所として一般に把握されてきた『東北』。中央の文化の植民地とも揶揄されるように、東北は昔から中央の文化に「遅れている」だとか「はずれている」という認識が他者のみならず東北に住む人々の中には存在していた。近代では東北史研究によって「後進」「辺境」といったイメージを払拭しつつあるが、未だに“遅れた東北“という見方が残っている。
ここでは、柳田國男をはじめとした様々な研究者の文献を参考として、時代ごとに若干の境界の変化があった東北の、その全ての括りであまり区別せずに様々な言説を東北論と捉えて主張・思想・情念・夢・幻想・希望などを浮き彫りにしたいとしていた。
 この本は約120年に及ぶ東北の自己認識と他者認識の相克を追っていた。おもしろいところとして様々な視点が存在しているということで、前置きにも記述のあった「未開」であるとか「野蛮」といったイメージの他にもフロンティアや豊かな土地という姿も投影されており、後進であるという認識は20世紀に入ってからということが有力であるとされた。東北論とはここでは著者の多元的で相対的な歴史理論であるとともに生き方であるとした。これは本書を読む中でどういった調査をして、どのような人と関わってきたかということに集約されているだろう。
 例えばスポーツの大会などで「東北勢初〇〇」というような言葉を時折耳にすることがある。さらに細分化して言えば「〇〇県初」といった言葉が出てくるほどである。良い方向で区別すること、例えば北海道では「道産子」という言葉で、秋田では「秋田美人」という言葉があるようにこれらの言葉は決してマイナスの意味を持たないだろう。こういった分け方として私はむしろどんどんやって地域を盛り上げていく方が有意義なのだと本書を読んで結論付けた。(772字) 修正版
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丸田杏樹さん (8lw4s72l)2023/1/25 10:38 (No.679988)削除
共働き社会への移行――筒井淳弥『仕事と家族 日本はなぜ働きづらく、産みにくいのか』
                             (中公新書、2015年)評
 日本社会は、共働き社会へ移行するべきである。戦後日本から社会を見ていくと、この頃から女性が働き始めた時期である。しかし、大々な女性の社会進出とはいかず、この頃でも専業主婦という割合が多い。しかし近年に近づくにつれ、女性の社会進出は増えてきた。それは、社会が少子高齢化が進み、賃金を稼がなければ、子育てするにはお金がたくさん必要であるからという背景がある。日本はこの窮屈な社会の中にある。
 しかし、海外に目を向けると、女性の社会進出が多いということもありながら、出生率も多い傾向にある。ここでは、大きな政府アメリカ、小さな政府スウェーデンのことを挙げる。この二つは対照的にあるにもかかわらず、女性労働と出生率に関しては良好なパフォーマンスがある。その背景には雇用の多さと男女、夫婦間の共働き率が関わってくる。アメリカでは、サービス業が支配的になり、女性の労働需要が高まるなか、徹底した雇用差別の禁止や柔軟な労働市場がある。スウェーデンでは、ケアワーク需要を満たすための膨大な公的雇用により、女性の労働参加ならびに所得レベルを高め、「共働き」を実現してきた。
 ここから見える日本社会の課題は「性別分業の克服」「共働き社会への移行」が挙げられる。日本社会は女性が働きにくさを感じているところもある。女性が働ける職種が増えたことも事実だが、中には女性はお茶やコーヒーを出すのが当たり前、女性が自衛隊に入るなんてという意見を耳にすることもしばしばある。こう言った部分からでも、日本の「性別分業」の考えは克服できていない。政府の方で女性を増やす、女性の意見も聞いてくれるような環境を作るということが課題解決の第一歩である。今の日本は若者が高齢者と日本を支える役割を持っているので、やはり「共働き」は必須の条件だ。ここを支えるためにも日本は考え方や偏見を打破する必要がある。ケアワークの充実、格差を産まない方針が鍵である。だからこそ今一度日本は働き方を考え直す、見つめ直すことが必要であると提起する。(841字)(最終版)
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高橋千夏さん (8luqzdmp)2023/1/25 10:38 (No.679987)削除
東北に潜む〈価値〉を知る ーー河西英通『東北ーつくられた異境』(中公新書.2001)評

 東北は二十一世紀に向けてその歴史的世界が脚光を浴びている。語られる文献や口伝からは東北の一体性、共通性が挙げられる。よって東北はその広大さにもかかわらず一つの空間として捉えられがちなのである。今や他者や他県からの認識ではほとんど後進的、未開などといった東北に対するイメージは持たれないが「遅れた東北」という見方が残っていることは否めない。しかし「後進的」「ハズレ」という認識は東北に住む人々の自己認識でもあった。東北はどうみられ、どう語られてきたのか。本書では国民国家の先駆けとなった明治以降の東北観・東北論にフォーカスを当て、多様で豊かな東北が近代的価値基準の中でどのように後進、辺境、未開を連想させる東北として成立させられてきたかが提起されている。
 明治期での紀行や巡幸において持たれた東北への認識は総論として「未開」のイメージだった。反対に裏腹の関係で開発のフロンティアとしても受け止められ、太平洋側と日本海側でも大きく異なる。各県にも様々な異質性が潜み、不統一かつ不均等に発展する社会だったということが記されている。
 近世後期から明治末期に至るまでの約120年の東北の自己認識と他者認識を様々な文献の引用から窺い知ることができる。東北を語る上で持たれているイメージや語り口は実に多様であり、「未開」のイメージはもちろんのこと「野蛮視」は明治初期あたりからみられた。その一方豊かな土地とも評されている。東北は多元的な社会かつ多様な未来への希望を志向しているのだ。
 現在も「東北意識」ともいえる東北の一体性・共通性は残っていると感じることがある。本書は国民国家として芽生え始めた明治期へフォーカスを当て、様々な東北紀行や東北の思想、方言など多様な文献を以って切実に当時の東北に関する論考が挙げられていることが興味深い。ナショナリズムを抱く近代日本がもたらした東北に対する「未開」「辺境」という位置付けがどのように広がりを見せたのかを知ることができる。現在では先入観による差別というのはどの事象においても考えさせられるものである。(880文字)
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maruさん (8lw4s72l)2023/1/24 22:58 (No.679691)削除
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原千佳子さん (8lw2kp74)2023/1/24 21:56 (No.679612)削除
その会議、無駄かも――吉田新一郎『会議の技法 チームワークがひらく発想の新次元』
                             (中公新書、2000年)評

 その会議、無駄ではないだろうか。費やす時間や費用など会議にマイナスイメージを感じることはその会議の充実性の低さにあると考えられる。「コミュニケーションがとれない」「こなすだけで精一杯」「チームとして機能しない」など、これらの問題は、多くの組織が抱えている課題である。本書は、それらの課題を企業の戦略会議から地域交流まで、会議を成功に導くための役割のあり方やアイスブレイク例などを交えつつチームとしての力を最大限に引き出すための方法が「会議を準備する」ことから「会議を変える糸口」を探る所まで順に論じられている。
 本書がユニークなのは、著者が会議の在り方に「発想」を重視しているところにある。様々な人が集まる会議だからこそ、一人では考え付かなかったような新しいアイディアを受け入れる体制が重要であり、受け身な会議ではなく、参加者にとって発展的なものにしていく工夫が大切なのである。そのことに関わり、本書の中で印象的だったのは「進行役は極力話さない」という項目だ。これは、司会者ではなく、あくまでもファシリテーターとして物事を容易にすることや、促進すること、また、他の役割と連携することや参加者の気持ちを大切にすることなどが求められ、例え、沈黙が続いたとしても待つことの重要性を欠いてはならないということなのだろう。実際の会議として多いのは、主にリーダーや組織としての考え方に依存してしまうことではないだろうか。つまりは会議という場自体がリーダーの独占状態になっており、会議をひらくことが目的となってしまっているのだ。会議は手段であり、効率的・効果的な会議のもち方というのは、会議の形に囚われるのではなく、その場にいる人々で構成することの重要性を意識し、新しい考えや思いつきに寛容である場を作ることなのではないだろうか。
 会議という形が一般化している今だからこそ、本書を活用し、みんなで作り出す会議へ移行していくよう、会議のあり方を今一度、模索する必要があるのではないかと提起する。(837字)
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