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高橋千夏さん (8luqzdmp)2023/1/23 23:44 (No.678666)削除
東北に潜む〈価値〉を知る ーー河西英通「東北ーつくられた異境」(中公新書.2001)評

 東北は二十一世紀に向けてその歴史的世界が脚光を浴びている。語られる文献や口伝からは東北の一体性、共通性が挙げられる。よって東北はその広大さにもかかわらず一つの空間として捉えられがちなのである。今や他者や他県からの認識ではほとんど後進的、未開などといった東北に対するイメージは持たれないが「遅れた東北」という見方が残っていることは否めない。しかし「後進的」「ハズレ」という認識は東北に住む人々の自己認識でもあった。東北はどうみられ、どう語られてきたのか。本書では国民国家の先駆けとなった明治以降の東北観・東北論にフォーカスを当て、多様で豊かな東北が近代的価値基準の中でどのように後進、辺境、未開を連想させる東北として成立させられてきたかが提起されている。
 明治期での紀行や巡幸において持たれた東北への認識は総論として「未開」のイメージだった。反対に裏腹の関係で開発のフロンティアとしても受け止められ、太平洋側と日本海側でも大きく異なる。各県にも様々な異質性が潜み、不統一かつ不均等に発展する社会だったということが記されている。
 近世後期から明治末期に至るまでの約120年の東北の自己認識と他者認識を様々な文献の引用から窺い知ることができる。東北を語る上で持たれているイメージや語り口は実に多様であり、「未開」のイメージはもちろんのこと「野蛮視」は明治初期あたりからみられた。その一方豊かな土地とも評されている。東北は多元的な社会かつ多様な未来への希望を志向しているのだ。
 現在も「東北意識」ともいえる東北の一体性・共通性は残っていると感じることがある。本書は国民国家として芽生え始めた明治期へフォーカスを当て、様々な東北紀行や東北の思想、方言など多様な文献を以って切実に当時の東北に関する論考が挙げられていることが興味深い。ナショナリズムを抱く近代日本がもたらした東北に対する「未開」「辺境」という位置付けがどのように広がりを見せたのかを知ることができる。現在では先入観による差別というのはどの事象においても考えさせられるものである。(880文字)
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小山三四郎さん (8lu7xgit)2023/1/23 14:50 (No.678163)削除
河西英通『東北:つくられた異境』(中公新書、2001)

 日本全土の約17%を占める広大な土地を有する空間で一括りに一体感のある場所として一般に把握されてきた『東北』。中央の文化の植民地とも揶揄されるように、東北は昔から中央の文化に「遅れている」だとか「はずれている」という認識が他者のみならず東北に住む人々の中には存在していた。近代では東北史研究によって「後進」「辺境」といったイメージを払拭しつつあるが、未だに“遅れた東北“という見方が残っている。
ここでは、柳田國男をはじめとした様々な研究者の文献を参考として、時代ごとに若干の境界の変化があった東北の、その全ての括りであまり区別せずに様々な言説を東北論と捉えて主張・思想・情念・夢・幻想・希望などを浮き彫りにしたいとしていた。
 この本は約120年に及ぶ東北の自己認識と他者認識の相克を追っていた。おもしろいところとして様々な視点が存在しているということで、前置きにも記述のあった「未開」であるとか「野蛮」といったイメージの他にもフロンティアや豊かな土地という姿も投影されており、後進であるという認識は20世紀に入ってからということが有力であるとされた。東北論とはここでは著者の多元的で相対的な歴史理論であるとともに生き方であるとした。これは本書を読む中でどういった調査をして、どのような人と関わってきたかということに集約されているだろう。
 例えばスポーツの大会などで「東北勢初〇〇」というような言葉を時折耳にすることがある。さらに細分化して言えば「〇〇県初」といった言葉が出てくるほどである。良い方向で区別すること、例えば北海道では「道産子」という言葉で、秋田では「秋田美人」という言葉があるようにこれらの言葉は決してマイナスの意味を持たないだろう。こういった分け方として私はむしろどんどんやって地域を盛り上げていく方が有意義なのだと本書を読んで結論付けた。(772字)
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渡邉理念さん (8lu2r49e)2023/1/23 12:26 (No.678061)削除
「あなたが見ている情報は本当に正しいと言えますか?」

私たちが生きていくには欠かせない情報。現代社会の情報源といえばインターネットであり、インターネットとの共存である。トレンドなどの流行り、SNSの炎上など様々なものが飛び交う中で、何が本当で、何が嘘なのかを確かめなければいけない。

本書は、著者であり、ジャーナリストである堤未果氏が、ニューヨークで活動していた時の取材経験と、「戦争」というテーマを大きく掲げ、アメリカでの実体験のある人物の話を元に、戦争から起こってしまった出来事をまとめている。この本で度々出てくるキーワードとして、9.11アメリカ同時多発テロがある。これは、私たちがちょうど生まれた年くらいの事件で、本書では10年しか立っていない、「戦争」というワードを理解させるにはとてもわかりやすい例だと言える。1番最近戦争の引き金である。第1章のタイトルである「戦争のつくりかた」というインパクトのあるタイトルに私は目を惹かれた。著者が言うには、戦争を引き起こす3つのステップとして、「愛国心」、「凶悪な敵」、「被害者意識」であると語っていた。簡単な3つのキーワードだが、とても腑に落ちる話で、ウクライナへのロシア侵攻のニュースにも言える。この3つの要因によって、民衆は感情的になり、冷静に考えることも、疑わなければいけないこともすべて、見えなくなってしまう恐ろしさが語られていた。

この本のタイトルになっている、「社会真実の見つけかた」とは、情報を読み解く力なのだ。
Twitterや、ニュースアプリの記事を読まずにタイトルの一文だけで内容を理解した気になっていないか?
最近のインターネットには、正しいといえない情報がたくさん転がっている。そんな中で、どの国が言っていることなのか?誰が発言しているのか?他のメディアと違っている点はないか?それはどこなのか。と言ったように、メディアから出る情報をまずは疑ってみる。自分で吟味して、話の内容、事の経緯を知ることが大切である。(831文字)
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佐藤群さん (8lswtm8q)2023/1/22 16:52 (No.677281)削除
メディアを自分で考える――菅谷明子『メディア・リテラシー ―世界の現場からー』(岩波新書、2000)評

 この情報社会で生きる私たちと切っては切り離せないメディア。テレビやインターネット、書籍など様々な媒体を通じて情報があなたの中に入ってくるだろう。そして、我々大学生は作品制作やレポート執筆など様々な場面で利用し、半ば依存的になっている者も多いと思う。そこで、あなたはそれらの情報の詳細を完璧に信用し理解した上で利用しているだろうか。この問いに答えるための鍵となるワードが「メディア・リテラシー」である。
 本書は著者であるのジャーナリスト菅谷明子氏が、メディアを分析しそのあり方を解読していくことである「メディア・リテラシー」の必要性について主張している。著者の考えや、著者自身が実際に取材し記録したアメリカ、イギリス、カナダの実践例を通じて、情報社会で生きる私たちが行うべきメディアとの関わり方について論じている。そこで、是非ピックアップして欲しいポイントがある。それは各国で行われている実践の内容についてである。それらは、斬新ながらも物事の本質を捉えている内容のものばかりだった。その中でも、第2章のカナダのメディア・リテラシー協会を立ち上げたダンカン先生のエピソードと取り組みが印象に残っている。多くの人々にメディアについて深く考える機会を作り、カナダの教育に貢献した先生の取り組みと考えから、私たちもメディアについて考えなければならないと深く納得できた。また、これらの取り組みの手法が私たちが行った生涯学習のイベント企画に通じていると思った。その内容もメディア・リテラシーを身につけるという「目的」にコミットしており、何らかの「目的」のもとで活動を行う我々も見習うべきものであると考える。したがって、本書を読む中で見出したことを将来のイベント企画などに取り入れてほしい。
 本書には専門的な用語がいくつか登場し人によってはそれらを調べながら読むことになるだろう。だが、それは新たな学びへとつながり、本書を読み終わる頃にはあなたなりのメディア・リテラシーが芽生えていることだと思う。(839字)
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薄井萌々花さん (8lrkam82)2023/1/21 18:13 (No.676394)削除
生まれたての自己を育む“ゆりかご”――中野民夫『ワークショップー新しい学びと創造の場―』(岩波新書,2001)評


 「ワークショップとは「その中で安心して成長したり生まれ変わったりできるゆりかご」だ(p143,1行目)」。これは、この本を読み終えた私の中で、深く印象に残った一文である。この本では、ワークショップとは何か、ワークショップの実例や意義に関して述べられ後、ワークショップを社会の中でより応用していくための方法が提案されている。
 著者である中野民夫さんは、株式会社博報堂に入社後、カリフォルニア統合学研究所で組織開発や組織変革を学び、ワークショップ企画プロデューサーとして勤務している。その中で知り得たワークショップの効果や、参加者の様子、ワークショップ内容が詳しく書かれている。
 中でも、「第2部ワークショップの実際」が、とても面白いと感じた。「第2部ワークショップの実際」では、ジョアンナ・メイシーの「つながりを取り戻す」ワークショップと「自分という自然に出会う」という連続ワークショップの模様が書かれている。ジョアンナ・メイシーの「つながりを取り戻す」ワークショップでは、卓越したワークショップのリーダーであるメイシーのワークショップに、著者自身が参加した際の様子が詳しく書かれていて、メイシーのワークショップを、疑似体験したような感覚になった。「自分という自然に出会う」という連続ワークショップに関しては、日本で数日間にわたり行われたワークショップを紹介していて、自分だったらどのワークショップに参加したいか、そこで何を得られるか想像しながら読むことが、とても楽しく感じた。
 私が誕生した2001年に、同じくこの世に誕生したこの本には、「「ワークショップ」という新しい学びと創造のスタイル(p1,2行目)」と書かれている。そこから20年以上経過した2023年現在、ワークショップや参加型学習は、学校教育でも取り入れられ、馴染み深いものになりつつある。至る所でワークショップが行われるようになった今だからこそ、この本を読んで、改めてワークショップの意義や効果を多くの人に知ってもらいたい。(826字)
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高橋友貴さん (8kz243zn)2023/1/1 19:27 (No.657661)削除
メディアとどの様に接するべきか。ーー菅谷明子『メディア・リテラシー −世界の現場から−』(岩波新書、2000)評


 現代社会において、メディアと関わりを持たないという事はもはや考えられない事では無いだろうか。ふと周りを見渡すとテレビ・ニュース・映画・コマーシャル・インターネットなど多くのメディアに溢れ、社会や生活に多くの影響を与えている。しかし、それらは必ずしも正しい情報であるわけで無い。中には操作された情報や虚偽の情報、印象を強く与える情報などがある。これらは作られた情報とも言え、受け手側である私達はその見極めを行う事が求められている。
 本書ではそうしたメディア類を見極め、どの様な構成、誰に向けた内容、判断するなどのメディアリテラシーがテーマとなっている。作中では、実際に実践している【アメリカ・カナダ・イギリス】の3カ国を例に、市民・学校・協会・テレビなどからの報告が掲載している。いずれの実践例はそれぞれの団体が行なっている為、着眼点やテーマもそれぞれ異なっている。また、国々によってもメディアリテラシーに対する考えが異なっているのが見えてくる。例えば、イギリスではメディアを理解し文化を育むのに対し、アメリカでは有害なメディアから守る「保護主義」が主とされている。この事はメディアに対する見方の違いと言えるだろう。
 本書において特に注目する点として、この本が書かれた当時のメディアの様子が感じ取れる事だ。2000年前後の内容となっている為、インターネットやマルチメディアなどの環境が現在と大きく異なっている。さらにメディア自体に懐疑的な印象を持つ風潮も根強く、作中でもメディアリテラシーを行う団体側の苦悩が随所に登場する。それでも既存の学習との組み合わせ、試行錯誤する様子が見える。いずれも現代社会に繋がる内容であり、古い情報だと侮れないと断言できると思う。
 また、文中では講義で紹介された【オルタナティブ・メディア】についても登場している。講義で学習した事と比較して読み解く事も、メディアリテラシーを理解する取り組みとなるだろう。(807字)
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滝口克典さん (8kh6vo2s)2022/12/20 07:26 (No.645865)削除
実験学校を多角的に考察――門脇厚司『大正自由教育が育てた力:「池袋児童の村小学校」と子どもたちの軌跡』(岩波書店、2022年)評

 教育機会確保法(二〇一六年)成立から五年以上がたち、多様な学習機会を保障するべく民間で試行錯誤を続けてきたフリースクールが徐々に注目を集めるようになってきた。教科書も時間割もなく、教員でもない人びとが手弁当で学びと育ちの空間をつくりだし、不登校をはじめとする「学校に行かない子どもたち」を支援する〈もうひとつの学校〉。
 そう聞くと「それで学力や社会性は身につくの?」などとつい反応してしまうのが、本邦マジョリティの学校化された習い性であろう。だが、フリースクール運動のラディカリズムそのままの教育実践をそれよりずっと以前に学校制度の只中で果敢に実践した実験学校が存在した。約一〇〇年前に東京郊外で始まり、十二年で幕を閉じた「池袋児童の村小学校」(一九二四~三六年)である。
 本書は、本県出身の教育社会学者が、大正自由教育の象徴ともいえるこの実験学校のありようをさまざまな角度から明らかにし、その意味を考察した「児童の村」のモノグラフである。自由教育を推し進めた教職員側からだけでなく、実際にそこに通い学んだ生徒たち五〇名以上から話を聴き、その実態を明らかにした点が本書の強みだ。
 調査が実施されたのは、もと生徒たちがその後五〇年ほどの年月を生きた一九八〇年代初頭。「その後」を見れば、学校教育が彼(女)らに何をもたらしたかが理解できるという理路で、実際にそこでは、先の「学力や社会性は身につくの?」への答えが、同校にまつわる進学率等の量的データならびに当人たちの証言により雄弁に語られる。
 筆者もまた本県のフリースクール運動に深く関わってきた身ゆえ、本書の結論に勇気づけられるところがないわけではない。だが、本書も認めるように、学費が高額だった同校に子弟を通わせられる家庭という点を考えれば、彼(女)らの「その後」を規定していたのは自由教育というより出身階層ではないかという疑いは濃厚に残る。自由教育に価値があるとして、それを階層を越えていかに幅広く届けていくか。それは、一〇〇年後の私たちに積み残された課題かもしれない。(865字)
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滝口克典さん (8kh6vo2s)2022/12/20 07:21 (No.645861)削除
無数の情報、自分を保つには――小林真大『生き抜くためのメディア読解』(笠間書院、2021年)評

 2022年、新しい「学習指導要領」が全国の高校で導入される。大きな変更があったのが「国語」で、これまで文学作品などを素材に、文章内容の理解に主眼を置いてきた国語教育に対し、「論理的・実用的な文章」であったり、文章のスタイルであったりをも学ぶかたちに代わっていくことになった。
 「論理的な文章」とは法律文や説明文、論説文など、「実用的な文章」とは広告やマニュアル、カタログなどのそれを指す。一方で文章のスタイルとは、そのメッセージがどんな形式で伝達されているかを指す。「文学作品のない国語なんて!」と早とちりしないでほしい。この変更には意味と背景がある。
 これらはどれも、情報化が進んだ社会のなかで、私たちがさまざまなメディアからのメッセージを適切に読み解いたり、あるいはそれを適切に発信したりできるようになるのに不可欠なもの。いわばそれは、現代的なメディア・リテラシーの養成を目的とした変更である。だが、そうした新しい観点からの教科書や副読本は未だほとんど見当たらない。
 このニーズに正面から応えたのが本書で、ニュース記事や広報、ブログ、企画書など、さまざまな形式のメディアとそのメッセージを批判的に読み解く方法について、それぞれの形式ごとにわかりやすく解説する。著者は朝日町出身の国際バカロレア文学教師。
 本書がユニークなのは、ニュース記事や製品マニュアルなどのみならず、報道写真や雑誌の表紙、政治家の演説文など、多彩な形式のメディアに光があてられ、分析されている点だ。いわれてみれば確かに、私たちの大半は、無数の情報メディアを環境として生きている。そのすべてに、私たちを特定の方向へと動かし、導こうとする意図がある。
 そうした意図の洪水のなか、自分というものを保とうとするには、最低限自らがいかなる意図に曝されているのかを自覚する必要がある。その意味で、本書の示すリテラシーの方法論は、2022年の高校生のみならず、現代を生きるすべての人びとにとって基礎教養となるだろう。(843字)
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滝口克典さん (8kh6vo2s)2022/12/20 07:21 (No.645860)削除
「公共的役割」への理解 もっと――フィルムアート社=編『そして映画館はつづく』(フィルムアート社、2020年)評

 二〇二〇年は、新型コロナウィルス禍に席巻され、緊急事態宣言下でさまざまな人びとが苦境を強いられた一年間であった。たくさんの人びとが集まり、いっしょに何かをするような場所に大きな負荷がかかったが、本書は、そのなかでも特に映画館という場所に焦点をあて、この一年間の現場の奮闘を関係者の証言から明らかにしたレポートである。
 映画館といっても、郊外にチェーン展開する大規模なシネコンから、街中でひっそりと営まれる隠れ家的なミニシアターまでさまざまだが、本書が照準するのは後者だ。登場するのは、全国各地の映画館主や配給会社、上映関係者などで、それぞれの現場の来歴とそれを受けたこの一年間とが、当人たちの生の声で語られている。山形市からはフォーラム山形、同社で番組編成を担当する長澤綾さん(一九七九年生まれ)のインタビューが収録されている。彼女に限らず、登場する人びとの多くが団塊ジュニア以降の三〇~四〇代で、総じて映画館や上映の世界で世代交代が進んでいることが見てとれる。
 印象的だったのは、収録された語りの多くに通底する「映画館の公共性」という問題意識である。従来、営利目的の興行の場と位置づけられてきた映画館だが、実質的には、多様性や多文化を学べる社会教育的な施設、居場所のない人びとにそれを供給する場、さらにはまちづくりの拠点など、多彩な社会的役割を担っている。緊急事態宣言下で行われたクラウドファンディング「ミニシアター・エイド基金」には三億円の支援金が集まったというから、その公共性は明らかだろう。
 しかし、各現場はこれまで、それぞれの自助努力においてそうした公共的な役割を担ってきたにすぎない。もちろんそれはとても素晴らしいことだし貴重なことだ。だが、果たしてそれを今後もミニシアター個々の自助に任せたままでよいのだろうか。映画館の公共性をきちんと位置づけ、公助で保障していくしくみが必要ではないか。コロナ禍は、そうした映画館という場所そのものをめぐる問いをも改めて浮き彫りにしたのである。(843字)
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滝口克典さん (8kh6vo2s)2022/12/20 07:20 (No.645859)削除
貧困、格差問題に迫れるか ――山崎亮『コミュニティデザインの源流 イギリス篇』(太田出版、2016年)評

 「コミュニティデザイン」を提唱し、各地で実践する著者が、その源流を求めて、産業革命後の19世紀イギリスの実践家たちの思想をたどる思索の旅の記録、それが本書だ。著者は東北芸術工科大学(山形市)教授、コミュニティデザイン学科長である。
 とりあげられているのは、美術批評家=社会改良家として活躍したジョン・ラスキン(1819~1900)をはじめ、彼を中心とする知的なネットワークに属する9人の実践家たち。「生活に美しさを」をコンセプトとするアーツ・アンド・クラフツ運動の基礎をつくったウィリアム・モリス(1834~1896)、貧困地域に知識人が居住し問題解決を支援するセツルメント運動を牽引したアーノルド・トインビー(1852~1883)、「田園都市」を構想し近代都市計画に大きな影響を与えたエベネザー・ハワード(1850~1928)、そして理想社会の建設を夢見て協同組合運動や労働運動にとりくんだ社会主義の先駆者ロバート・オウエン(1771~1858)などが、一人ずつていねいに紹介されている。どの人も、それぞれの専門分野でかなり有名な人びとである。
 本書がユニークなのは、そんな彼らをもとの歴史的文脈へと連れ戻し、彼らが共通して属していた知的なサークルとその雰囲気を描き出している点だ。そこから改めて見えてくるのは、上記のどの運動・理論も、産業革命後のイギリス社会が苦しんでいた貧困や格差の問題に対する市民活動という側面を共通してもち、そこから派生してうみだされた多様な方法であったという事実である。
 こうした一群の人びとこそが「コミュニティデザインの源流」と著者は書く。それまでも各地で行われてきた地域づくりや地域学を「コミュニティデザイン」と名づけ直し、新たにパッケージして商品化し成功をおさめた著者が、今度はその射程に社会主義をも捉えたかたちだ。貧困や格差の問題に、果たしてそれはどこまで迫ることができるだろうか。「コミュニティデザイン」の真価、真贋が問われている。(832字)
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